日本軍による対ソ戦準備のための大動員。関東軍特種演習の略称。1941年(昭和16)6月、独ソ戦が開始されると、日本陸軍内には対ソ侵攻論が急速に台頭し、7月2日の御前会議では、秘密裏に対ソ戦準備を整え、独ソ戦の戦況が日本にとって有利に進展した場合には、対ソ戦を開始することが決定された(情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱)。このため、7月7日には最初の動員令が下令され、7月下旬から9月にかけて動員部隊の満州、朝鮮への大輸送が行われた。この動員、集中は陸軍建軍以来最大の規模のものであり、関東軍の兵力は人員約70万、馬匹約14万、飛行機約600機にまで増強され、満州、朝鮮には多数の軍需資材が集積された。しかし、日本の期待に反してソ連軍はドイツ軍の猛攻に耐え、極東ソ連軍の西方への移送も比較的小規模のものにとどまったため、8月9日、大本営陸軍部は年内における対ソ侵攻作戦を断念する方針を決定したのである。関特演は、企図秘匿上の考慮から「演習」という呼称を用いてはいるものの、実際には対ソ武力発動を前提とした作戦準備行動であり、日ソ中立条約を侵犯するものであった。
[吉田 裕]
関東軍特種演習の略称で,日本軍が実施した対ソ作戦準備。1941年6月22日独ソ戦が開始されると,7月2日の御前会議は〈情勢の推移に伴う帝国国策要綱〉を採択し,独ソ戦が有利に進展したら武力を行使して北方問題を解決するとの方針を決定した。これに基づいて7月7日関特演の動員令が下り,13日内地から約300の各部隊の動員につづいて,16日第2次動員として14個師団基幹の在満州・朝鮮部隊と内地2個師団が動員され,北満に膨大な人力と資材が集積された。関東軍は一挙に約70万人の兵力と軍馬約14万頭,飛行機約600機を擁するにいたった。演習とはいえ,内実は対ソ連戦準備の歴然たる軍事行動であり,日ソ中立条約の事実上の侵犯であった。独ソ戦の戦況に進展はなく,8月9日参謀本部は年度内対ソ連武力行使の中止を決定した。太平洋戦争開始後,戦局悪化により対ソ連戦に備えた関東軍部隊は逐次南方に転出された。
執筆者:鈴木 隆史
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