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日本陸軍 にほんりくぐん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

日本陸軍
にほんりくぐん

大日本帝国陸軍のこと。明治新政府は,明治1 (1868) 年に官制として海陸軍務課のもとに陸軍を制定した。さらに同年陸軍教務課を軍防事務局に改め,その下に陸軍局を新設した。同2年軍防事務局が兵部省に改編され,同4年に薩摩,長州,土佐3藩の藩兵から親兵が編制され,新日本陸軍の一応の基盤となった。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日本陸軍
にほんりくぐん

大日本帝国陸軍ともよばれる近代日本の陸上兵力。[藤井治夫]

歴史

明治維新によって天皇を頂点とする中央政府が確立されたが、この間、討幕戦争を通じて軍事官制の整備も進んだ。1869年(明治2)7月には兵部(ひょうぶ)省が設置され、海陸軍の軍務を処理した。当時の陸上兵力は諸藩の藩兵であり、政府直轄の軍隊はなかった。
 1871年2月、薩長土(さっちょうど)三藩の献兵約1万人により御親兵が組織された。天皇に直属する軍隊として陸軍が創設されたのである。翌年2月には兵部省が廃され、陸軍省、海軍省が置かれた。
 こうしてスタートした日本陸軍は、西南戦争をはじめとする内乱の鎮圧、日清(にっしん)・日露以後の相次ぐ対外戦争を通じてしだいに強化され、1941年(昭和16)には兵力210万人をもって太平洋戦争に突入した。だが45年8月、ポツダム宣言の受諾を余儀なくされ、完全に解体された。敗戦時の陸軍兵力は640万人に達していた。同年12月1日、陸軍省は海軍省とともに廃止され、帝国陸海軍は70余年の歴史を閉じた。
 創設当初の陸軍は各地に駐屯し、その本営を鎮台といい、駐屯地を営所と称した。1873年1月、徴兵令が施行された。これに伴う兵制改正で全国六軍管に鎮台が置かれ、平時兵力約3万人となった。当時の主任務は、鎮台という名称が示すように治安の維持にあり、相次ぐ士族反乱の鎮定にあたった。
 だが軍備の重点は、しだいに外敵対処に移されていった。1874年には兵力3000余による台湾出兵がなされた。征韓論が浮上したのも維新直後のことであった。
 本格的な戦争に備えて兵制の改革が実施された。1878年には陸軍省から分離して参謀本部が設置され、天皇に直属して作戦用兵にかかる軍令事項を担当することになった。のち海軍でも軍令機関が分離し、統帥権独立の問題とも絡んで多くの問題を生んだのである。
 1888年5月、鎮台を廃して6個師団が編成された。3年後には近衛(このえ)師団が加わった。諸兵種が連合し独立作戦能力をもつ師団編成がとられたのは、大陸における戦争に備えるためであった。日清戦争はこの7個師団(約12万人)によって戦われた。
 ついで対露戦争に備えた大規模な軍備拡充が開始され、6個師団の増設が進行した。日露戦争は常設師団に加えて後備部隊をも投入し、約40万人の兵力(延べ100万人)をもって戦われた。日本は勝利したが、戦争犠牲者は約10万人に達した。
 この勝利を受けて1907年(明治40)4月、露・米・仏を目標とし、東亜において攻勢をとりうる兵備を建設するという「帝国国防方針」が決定された。所要兵力は陸軍が平時25個師団、戦時40個師団とされた。
 仮想敵国は1918年(大正7)の国防方針改定で露・米・支那(しな)となり、ついで23年の改定で米・露・支那の順に変わった。さらに36年には米・露を目標とし、あわせて支那・英国に備えることになった。
 日本は第一次世界大戦に乗じてドイツに宣戦布告し、山東半島に上陸して青島(チンタオ)を占領、さらに南洋群島を確保した。ついでロシア革命に干渉してシベリアに3個師団、延べ約10万人を派兵し、沿海州からバイカル湖周辺までを占領したが、完全な失敗に終わった。
 その後は中国侵略に重点を置き、昭和に入って山東出兵、済南(さいなん)事件に続いて満州事変を開始したが、日中全面戦争の泥沼に落ち込み、最後には世界大戦へエスカレートさせることになって破滅に至ったのである。[藤井治夫]

組織

陸軍中央機関の中核は陸軍省、参謀本部、教育総監部で、これを陸軍三官衙(かんが)といい、その長である陸軍大臣、参謀総長、教育総監を陸軍三長官とよんだ。三長官は同格で、それぞれが天皇に直属した。
 陸軍省は1872年に設置され、その長を陸軍卿(きょう)といった。78年参謀本部が分離し、85年内閣制度が発足するに伴い、陸軍卿は陸軍大臣となった。89年公布の大日本帝国憲法により、国務各大臣は天皇を輔弼(ほひつ)しその責に任ずるものとされた。天皇は主権者として広範な権限をもっていたが、神聖不可侵とされ、大権行使の責任は国務大臣が負うものとされていた。にもかかわらず陸軍大臣の所掌は陸軍軍政の管理、軍人軍属の統督に限られ、軍令事項は除外された。
 参謀本部は軍令に関する事項を専掌し、天皇に直隷した。その責任は憲法に規定されておらず、その権限は統帥権の独立が強化されるとともに拡大されていった。1893年5月、海軍軍令部が独立し、戦時大本営条例が制定された。日清戦争後、陸海統帥部の拮抗(きっこう)が強まり、それぞれが争って権限の強化に努めた。
 参謀総長は天皇の命令を立案し、勅裁ののち、平時には陸軍大臣が執行し、戦時には参謀総長が伝達した。
 教育総監部が天皇直属の機関となったのは1900年で、陸軍全般の教育を管掌した。陸軍三官衙の権限は業務担任規定として定められたが、13年の改正で、軍の編制、動員に関する事項が陸軍大臣から参謀総長に移された。このときから三長官会議が制度化され、まもなくこれが後任陸相を推薦するようになって陸軍の発言権を強化した。38年には陸軍航空総監部が天皇直隷の機関として新設された。
 陸軍の部隊は、平時にあっては師団を最大単位として編成された。師団数は1916年に21個に達したが、大正末期の軍縮により17個に減少した。その後37年の日中全面戦争を契機として急速に拡大され、太平洋戦争開戦時は51個となっていた。
 師団の上位には戦時・事変に際し軍、さらにその上位に方面軍が設けられた。例外として朝鮮、中国(満州)には権益確保のため朝鮮軍と関東軍が平時にも配備されていた。
 関東軍は、日露戦争で獲得した遼東(りょうとう)半島と南満州鉄道などの利権を守るために派遣され、1919年に軍司令部を創設した。満州事変以後兵力が増強され、41年には16個師団、80万人に達した。関東軍司令部は「満州国」の政治と軍事を支配し、強大な実力をもっていたことから政府の方針を無視して独走し、武力紛争を拡大したのであった。[藤井治夫]

特徴

日本軍は天皇の軍隊として建設された。日本陸軍の原型としての親兵は、天皇直属の軍隊として廃藩置県実施の基盤となった。陸軍は士族反乱の鎮圧を通じて天皇制の支柱となり、最強の実力を背景として官僚機構のなかでも最大の発言力をもつに至った。
 1882年(明治15)1月、天皇は大元帥として軍人勅諭を下賜し、天皇への忠誠、命令絶対服従などを軍人精神の最高規範として示した。服従の強制が私的制裁を含め、もっとも厳しく貫徹されたのは陸軍においてであった。兵営教育によって、兵士の人間性は完全に抹殺されたのである。
 軍令機関としての参謀本部が独立し、天皇親率が確立することによって、軍の統帥は内閣から独立していった。日清・日露戦争時の大本営には首相や外相が特旨により列席したが、日中戦争開始後は軍だけで構成された。このため首相や外相でさえ作戦構想を知ることができず、軍事戦略と政治戦略の統一を欠くことになった。1937年末から法令に基づかない大本営政府連絡会議において協議がなされたにすぎない。
 この統帥権の独立によって、作戦用兵部門の肥大化と独走が促進された。あわせて1900年(明治33)には陸軍大臣・海軍大臣の現役武官制が制度化された。このため、政党内閣が生まれる場合にも陸海軍大臣には軍人をあてなければならず、軍の意向に反する組閣はできなくなった。13年(大正2)から36年(昭和11)までは予備役・後備役の将官でもよいことに改められたが、二・二六事件(1936)の直後にふたたび現役将官に限定されることになった。
 軍部大臣現役武官制を利用して国政に介入したのは、主として陸軍であった。1912年には2個師団増設を拒否した西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣を、陸相辞任によって総辞職に追い込んだ。40年にも日独伊三国同盟推進のため、陸相辞任によって米内光政(よないみつまさ)内閣を倒した。陸相は陸軍の代表として内閣に派遣されていたわけで、就任を条件として閣僚人事に介入したことも少なくなかった。
 このような特権と独自性をもち、強大な政治勢力となった軍部は、帝国在郷軍人会や右翼団体を動かし、また現役将校を学校に配属して軍事教練を実施し、師範学校卒業者に短期現役服務を義務化するなどの手段によって日本社会全体の軍国主義化を推進した。さらに関東大震災(1923)や二・二六事件などで発動された戒厳令、米騒動(1918)や労働争議に対する衛戍(えいじゅ)勤務令に基づく軍隊の出動、憲兵による市民に対する弾圧など、赤裸々な暴力をもって国民を支配した。このような軍隊の対内機能を担ったのは主として陸軍であった。テロやクーデターという非合法手段に走る場合も少なからずあった。
 しかも日本陸軍は、創設直後から海外に矛先を向け、とくに日清戦争以後の50年間は、対外戦争の連続であった。明治政府は大陸への進出を国家政策の基本とし、朝鮮・中国に対する戦争を計画し領土の獲得に努めた。陸軍中枢部は朝鮮・満州の確保にとどまらず、華北やシベリアの領有をも構想し、侵略を拡大していったのである。
 このように陸軍は、一貫して外征軍であった。だがシベリア出兵に失敗したのち、中国における民族解放運動の高揚に直面し、長期の戦争によっても侵略目的を達成することができず、自壊への道を歩むことになった。外征作戦のもつ矛盾のなかで、南京(ナンキン)虐殺事件のような非人道行為が続発し、のちに戦争犯罪として追及された。また満州事変のころから最高統帥部の指示に反して海外駐屯軍が独断専行することが多くなった。命脈とうたわれた軍紀までが紊乱(びんらん)してしまった日本軍は、崩壊すべくして崩壊したといえよう。
 日本陸軍の本質は、その最後の戦場であったといえる沖縄防衛戦で余すところなく暴露された。国民を守るべきこの戦いで、陸軍は、逆に多くの民衆を犠牲にすることによって生き残ろうとした。これによって日本陸軍は、国民と異質の存在であったことを自ら証明して歴史のなかに消えていったのである。[藤井治夫]
『藤原彰著『日本現代史大系 軍事史』(1962・東洋経済新報社) ▽大江志乃夫著『昭和の歴史3 天皇の軍隊』(1982・小学館) ▽家永三郎著『戦争責任』(1985・岩波書店) ▽防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 陸海軍年表』(1980・朝雲新聞社) ▽防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 大本営陸軍部〈1〉~〈10〉』(1967~78・朝雲新聞社)』

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