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満州(現,中国東北地方)に駐屯した日本の陸軍部隊。日露戦争後の1906年新設された関東都督府陸軍部は関東州租借地と満鉄付属地の警備に当たったが,19年4月官制改正により関東都督府に代わって関東庁が置かれ,同時に陸軍部は独立して関東軍司令部が旅順に設置された。関東軍司令官は内地から交替で派遣された1個師団のほか,満州独立守備隊,旅順要塞司令部,関東軍憲兵隊など在満陸軍部隊全部を統轄した。満州が日本の中国侵略と対ソ戦略の前進基地としての位置を占めたことから,関東軍の役割は在満権益の擁護とともに中国侵略と対ソ作戦の第一線部隊たることにあった。そのため関東軍は常に日本の大陸侵略政策の先頭にたち,張作霖爆殺事件を引きおこしたほか,満州事変と満州国の建設に主導的役割を果たした。満州事変開始後,司令部は長春(新京)に移り,司令官は駐満特命全権大使・関東長官を兼任し,ついで34年12月在満機構改革により関東州・満鉄付属地の行政権と満鉄の監督権を握り,満州国の軍事・行政全域に君臨した。事変前に駐劄(ちゆうさつ)1個師団と独立守備隊6個大隊にすぎなかった関東軍の兵力も逐年増大し,37年に5個師団,41年には13個師団編成となった。その間,38年張鼓峰事件,39年ノモンハン事件ではソ連軍に大敗を喫したが,41年独ソ開戦に伴い,関特演(関東軍特種演習)によって約70万の大軍を擁し,対ソ戦に備えた。太平洋戦争開始後の42年10月に司令部は総司令部に拡大強化され,3方面軍をその隷下におき,ソ満国境の要地に精鋭師団を配置した。しかし太平洋戦争の戦局が悪化した43年以降,精鋭部隊があいついで南方戦線に移動され,戦力は急速に弱体化した。45年7月関東軍は在満日本人男子25万人の〈根こそぎ動員〉を実施したが,同年8月9日ソ連の参戦によって一挙に瓦解した。
執筆者:鈴木 隆史
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日本の植民地常備軍の一つで、満州(中国東北地区)に置かれた陸軍部隊。ポーツマス条約、日清(にっしん)満州善後協約でこの地に権益を得た日本が、日露戦争中の軍政を継続して関東総督(翌年都督となる)のもとに軍隊を駐屯させたのが前身。遼東(りょうとう/リヤオトン)半島(関東州)と満鉄付属地の守備を任としたが、実質的には対露、対ソ向けの武力で、中国革命にも干渉を繰り返す帝国主義軍隊であった。1919年(大正8)都督府の改組で関東軍として独立した。中国の国民革命の進展とともに謀略による東北の占領を画策、28年(昭和3)参謀河本大作(こうもとだいさく)らは張作霖(ちょうさくりん/チャンツオリン)を爆殺したが武力行使の口実にはならなかった。のち謀略は参謀板垣征四郎、石原莞爾(かんじ)らの手で31年の柳条湖(りゅうじょうこ)事件へと続き、関東軍は全東北を占領(満州事変)、同地を中国から分断して翌年「満州国」を樹立した。同時に関東軍司令官は「満州国」駐箚(ちゅうさつ)全権大使、関東長官を兼ね、関東軍は日本の満州経営上いっさいの権限を握った。関東軍は「満州国」の政策を背後で決定する一方、反満抗日運動の鎮圧に努め、さらに華北、内蒙古(うちもうこ)へも出兵するなど日本の中国侵略の尖兵(せんぺい)であった。また対ソ戦を期して兵力は飛躍的に拡大、陸軍中の精鋭を誇ったが、38~39年の張鼓峰(ちょうこほう)、ノモンハン両事件でソ連軍と交戦し機動力の弱さを暴露した。41年独ソ戦勃発(ぼっぱつ)に乗じソ満国境を中心に70万の大軍を集結(関特演=関東軍特種演習)、ソ連軍の西走を牽制(けんせい)したが、太平洋戦争中は南方への転用で弱体化し、45年ソ連参戦で壊滅した。末期には大規模な設備で細菌兵器の開発、製造にあたり、人体実験を行うなど悪名が高い。
[岡部牧夫]
『島田俊彦著『関東軍』(中公新書)』
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日中戦争前に日本が中国東北部に置いた陸軍部隊。日露戦争によって獲得した関東州と南満洲鉄道の守備や諸権益確保を目的に駐屯軍を配置したことに由来する。1919年天皇直属の司令部が旅順に置かれ,対ソ防衛の役割を担った。武力を背景にたびたび中国の内政に干渉し,28年の張作霖(ちょうさくりん)爆殺や31年の満洲事変勃発などの謀略を企てた。また32年には満洲国を建国し,満洲の全権を掌握して,最盛期には70万人の兵力を備えた。しかし,張鼓峰(ちょうこほう)事件やノモンハン事件など,38~39年におけるソ連軍との局地戦ではことごとく敗北し,45年8月9日のソ連参戦によって一挙に壊滅した。
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1919年(大正8)4月12日,関東都督府陸軍部隊をひきついで,関東州の防備と南満州鉄道の沿線保護に任ずるため創立された日本軍部隊。司令部は旅順におかれ,のち奉天(瀋陽)・新京(長春)と移り,「満州国」建国後は満州全土の軍事力の中核となった。満州事変までは基本的に,満鉄警護のための独立守備隊(6大隊)と,内地から交替で派遣される1個師団からなっていた。急速に力をつけてきたソ連極東軍と中国のナショナリズムに対して,軍事力で対抗しようとした参謀たちに率いられ,20年代後半から強硬な大陸政策の推進基地となった。41年(昭和16)の関東軍特種演習発動時(兵力約70万,飛行機約600機)から1年ほどは戦力もピークにあった。その後戦力は次々に南方に転用され,45年8月9日のソ連軍参戦にあたって敗走し,8月15日に解体した。
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…日本は関東州を統治するため1906年旅順に関東都督府を設置し,陸軍大将または中将に限られた都督が州の軍事・行政権を掌握した。19年官制改正により関東都督府は廃止され,代わって関東庁と関東軍司令部がそれぞれ独立の機関として新設された。これによって関東州はその警備を関東軍にゆだねるとともに,文官の関東長官の行政的管轄下に置かれ,南満州鉄道会社(満鉄)付属地とならんで日本の南満州支配の基盤となった。…
…ノモンハン一帯の国境問題は日ソ間に係争中で,日本側はハルハ川を,ソ連側はその北方のノモンハン付近をそれぞれ国境と主張していた。1939年関東軍は隷下部隊に〈満ソ国境紛争処理要綱〉を示達し,国境紛争ではソ連軍を徹底的に膺懲(ようちよう)せよとの方針を示した。たまたま同年5月12日ノモンハン付近でハルハ川を越えた外蒙軍と満州国軍が衝突した。…
…1928年の張作霖爆殺事件は武力による満蒙占領を企てた軍人の陰謀であった。その後関東軍は板垣征四郎,石原莞爾(かんじ)両参謀を中心に満蒙領有計画を練り上げ,31年9月謀略によって満州侵略を開始した。軍中央部は直ちに関東軍の行動を追認したが,満蒙領有案には反対したため,関東軍は満州建国に方針を転換した。…
… 1920年代,中国で民族運動が高まり,排日運動が高揚するなかで,〈満州〉の張学良政権は満鉄を包囲する鉄道網を建設してこれに対抗,さらに31年中華民国政府は満鉄を含む利権回収の外交方針を発表,満鉄と激しく対立した。したがって,満鉄は日本政府に対し対〈満〉強硬外交を要求,関東軍と連係してその急先鋒となった。日本政府は,前外相内田康哉を満鉄総裁に任命し,張学良政権との外交交渉を進める一方,満鉄の利権保護に全力をあげたのである。…
※「関東軍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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