阿弥陀堂村(読み)あみだどうむら

日本歴史地名大系 「阿弥陀堂村」の解説

阿弥陀堂村
あみだどうむら

[現在地名]能登川町阿弥陀堂

河南かわみなみ村の西、愛知えち川左岸にあり、川に近く井口いのくち集落、その南に本集落が立地する。古く大洲おおす村と称したのはこの立地条件による。阿弥陀堂の名は伝行基開基の光照こうしよう寺があったが、のち兵火で焼失本尊の阿弥陀坐像が地中に埋められて伝わり、地名になったという。中世栗見くりみ庄の内で、その総社という栗見大宮くりみおおみや天神社の別当であった竹中妙貫院(天台僧)が住していたと伝え(「栗見大宮天神社記」栗見大宮天神社蔵)、阿弥陀城主であった(大洞弁天当国古城主名札)


阿弥陀堂村
あみだどうむら

[現在地名]豊田市畝部西うねべにし町 阿弥陀堂

市域南端で矢作川に架かる天神橋の西にあり、矢作川と明治用水によってつくられる三角形の中心部分に位置する。上野うえの城を拠点とする三河一向一揆に対し、家康隣松りんしよう寺を拠点として上野城を攻めた。永禄六年(一五六三)の家康書状写(伊予田家文書)によると、阿弥陀堂から兵糧を調達している。

近世を通じて岡崎藩領。慶安二年(一六四九)検地帳があり、この時の検地役人は安部井清右衛門・吉田六右衛門であった(近世上野雑抄)。当村は明治用水の開削で知られる豪農伊予田与八郎の出身地である。伊予田与八郎は慶応期(一八六五―六八)から明治四年(一八七一)まで岡崎藩領上野手永の大庄屋を勤め、頼母子講による金融も営んでいた。


阿弥陀堂村
あみだどうむら

[現在地名]黒部市阿弥陀堂

十二貫野じゆうにかんの台地布施ふせ川の間に位置し、東は釈迦堂しやかどう村、西は尾山おやま村。昔、ここに阿弥陀堂があったので村名とした(「新川郡村名由来」加越能文庫)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一五二石、免五ツ六歩、小物成は山役二五匁・蝋役四匁・鱒役一匁・鮎川役二匁(三箇国高物成帳)。元禄九年(一六九六)布施川の大洪水により引高四三石、享保八年(一七二三)から三度の手上高により天保一一年(一八四〇)の草高一一九石余(「高免帳」杉木家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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