阿部豊(読み)アベ ユタカ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「阿部豊」の解説

阿部 豊
アベ ユタカ


職業
映画監督 俳優

別名
芸名=ジャック阿部

生年月日
明治28年 2月2日

出生地
宮城県 仙台市

学歴
ロサンゼルス演劇学校

経歴
東北中学2年で中退し、大正元年叔父を頼って渡米。土地の農家に住み込んで手伝いをしながら学校に通い、友人の勧めでロサンゼルス演劇学校に学ぶ。その頃、同地でスターとなっていた早川雪洲主演の「火の海」撮影のため日本人のエキストラを探していることを知り応募したところ、トーマス・H.インス監督に認められて同作で銀幕デビューを果たす。以後、映画での活動を本格化させ、早川の家に寄宿してジャック阿部の芸名でフランク・ロイド、フランク・ボーザージ、セシル・B.デミルらの監督作品に脇役として出演。14年帰国してすぐ日活大将軍撮影所に招かれ、監督第一作「母校の為めに」を発表、ハリウッド仕込みのモダニズム感覚と軽快なタッチが高く評価された。15年には夜行列車を舞台にした女スリの喜劇岡田時彦、梅村蓉子主演で撮った「足にさはった女」がキネマ旬報ベストテン1位に選出され、さらに同年の「陸の人魚」も3位にランクインするなど、一気に注目される存在となった。以後は日活現代劇モダニズム派として活躍し、昭和2年田中栄三脚本、岡田主演で豊かな情緒と軽快なテンポ、そして巧みに日本化された好色趣味と米国帰りらしい洒落た味わいをだした「彼をめぐる五人の女」が好評を博し、キネマ旬報ベストテン2位に選ばれた。6年岡田や俳優の鈴木伝明らとともに不二映画を設立。その後、8年入江プロ、9年新興キネマを経て、同年日活多摩川撮影所に移るが、やがて戦時体制で映画の検閲が強化されると自身が最も得意とした喜劇や好色趣味を思う存分発揮できなくなり、13年東京発声で製作した真船豊原作、八木保太郎脚色のアクション社会劇「太陽の子」で新境地を開いた。同年東宝に移籍。戦時中には15年の「燃ゆる大空」、17年の「南海の花束」などの戦意高揚を目的としたスペクタクル大作で力量ある演出を見せ、19年の「あの旗を撃て」では少将待遇を受けてフィリピンでのロケを敢行した。戦後は20年にミュージカル映画「歌へ!太陽」でいち早く復帰し、23年の東宝争議の後は同社を離れて25年新東宝で谷崎潤一郎原作の「細雪」を映画化して成功を収めた。のち東宝、東映を経て、31年古巣の日活に戻り、文芸ものや女性もの、娯楽作品で往年の冴えを見せたが、36年「いのちの朝」を最後に監督を引退。他の監督作品に「からたちの花」「恋愛と結婚の書」「頬白先生」「多情仏心」「天の夕顔」「青春怪談」「戦艦大和」「叛乱」(佐分利信と共同)「最後の突撃」などがある。

没年月日
昭和52年 1月3日 (1977年)

伝記
愛すればこそ―スクリーンの向こうから日本映画の巨匠たち〈1〉 香川 京子 著,勝田 友巳 編佐藤 忠男 著(発行元 毎日新聞社学陽書房 ’08’96発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「阿部豊」の意味・わかりやすい解説

阿部豊 (あべゆたか)
生没年:1895-1977(明治28-昭和52)

阿部ジャック,ジャッキー阿部の名で親しまれた映画監督。宮城県生れ。10代で渡米,ハリウッドで俳優修業をした後(早川雪洲の書生をしていた),関東大震災の翌々年(1925)帰国。ハリウッド帰りの監督として,アメリカ的なモダニズムとソフィスティケーションを〈現代劇〉に吹きこみ,しゃれた都会的センスと,〈好色趣味〉と〈音楽的諧調(テンポとリズム)〉にあふれた喜劇《京子と倭文子》(1926。清水宏,伊藤大輔と競作),《足にさはった女》(1926),《彼を繞る五人の女》(1927)で一躍注目され,これらの作品によって岡田時彦を粋な二枚目スターにした。欧米帰りのシナリオ・ライター森岩雄を中心にした〈金曜会〉とともに〈日活現代劇〉のてこ入れに貢献。戦意高揚映画《燃ゆる大空》(1940),《あの旗を撃て》(1944)も撮った。
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20世紀日本人名事典 「阿部豊」の解説

阿部 豊
アベ ユタカ

大正・昭和期の映画監督



生年
明治28(1895)年2月2日

没年
昭和52(1977)年1月3日

出生地
宮城県仙台市

学歴〔年〕
ロサンゼルス演劇学校

経歴
大正の初め渡米、ロサンゼルス演劇学校に学びメトロ、ゴールドウィンなどの映画に出演。大正14年帰国、日活に入り同年「母校の為めに」を監督。その後日活現代劇モダニズム派として活躍、昭和6年不二映画、さらに新興キネマ、東宝などでアメリカ式モダンガールの風俗を映画に定着させた。戦前「足にさわった女」「彼をめぐる五人の女」「陸の人魚」「多情仏心」、戦後は「天の夕顔」「細雪」「青春怪談」「素足の娘」「大阪の風」などを監督した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「阿部豊」の解説

阿部豊 あべ-ゆたか

1895-1977 大正-昭和時代の映画監督。
明治28年2月2日生まれ。アメリカで演劇をまなび,映画俳優となる。大正14年帰国,日活に入社し「母校の為めに」で監督としてデビュー。昭和52年1月3日死去。81歳。宮城県出身。東北中学中退。通称はジャッキー阿部。代表作に「足にさわつた女」「彼をめぐる五人の女」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「阿部豊」の解説

阿部 豊 (あべ ゆたか)

生年月日:1895年2月2日
大正時代;昭和時代の映画監督
1977年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の阿部豊の言及

【岡田時彦】より

…大正末期から昭和の初めにかけて,阿部豊,溝口健二,小津安二郎,清水宏らの作品に連続して主演し,鋭く繊細な近代的感覚をうたわれた二枚目スター。東京生れ。…

【活劇映画】より

時代劇映画
[戦前の活劇]
 1920年代から30年代にかけて,活劇は隆盛をきわめ,活劇スターが輩出した。学生スポーツ映画の嚆矢(こうし)《我等の若き日》やオートバイ活劇《青春の歌》(ともに1924)や牛原虚彦監督とのコンビ作《潜水王》(1925),《近代武者修業》,《陸の王者》(ともに1928)などの鈴木伝明,山本嘉次郎監督《爆弾児》(1925)や《鉄拳児》,オートバイ活劇《快走恋を賭して》(ともに1926)などの高田稔,《恋は死よりも強し》(1925),《赤熱の力》(1926),《鉄拳縦横》(1927)などの竹村信夫,田坂具隆監督《阿里山の俠児》(1927),《雲の王座》(1929)や阿部豊監督《覇者の心》(1925),《非常警戒》(1929)や内田吐夢監督《東洋武俠団》(1927)などの浅岡信夫,溝口健二監督の海洋活劇《海国男児》(1926)や田坂具隆監督《鉄腕記者》,《黒鷹丸》,また内田吐夢監督《漕艇王》(ともに1927),《太洋児・出船の港》(1929)などの広瀬恒美である。これらの映画はときに〈猛闘劇〉と呼ばれ,鈴木伝明は学生出身のスポーツ俳優第1号とされ,続く浅岡信夫は陸のスポーツ俳優,広瀬恒美は海のスポーツ俳優と称されて,浅岡信夫はみずから監督もした。…

【田中栄三】より

…トーキー以後はほとんど作品がなく,現場から退いた後は,日本映画俳優学校で多くの人材を育てた。関東大震災直後,森岩雄らと日活金曜会で企画の刷新をはかり,溝口健二《紙人形春の囁き》(1926),阿部豊《彼をめぐる五人の女》(1927)など日本映画の古典的名作として記録されることになる作品のシナリオを書いた。晩年は大学の芸術学部や撮影所の俳優養成所で演技理論と実際の指導にあたり,また,今井正《また逢う日まで》(1950),豊田四郎《雁》(1953)その他に特別出演している。…

※「阿部豊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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