日本大百科全書(ニッポニカ) 「東宝争議」の意味・わかりやすい解説
東宝争議
とうほうそうぎ
一般に1948年(昭和23)に発生した東宝株式会社の共産党員など大量解雇反対争議をいう。同社では1946年2~4月にも撮影所、劇場で生産管理闘争が決行され、組合は民主的な団体協約の締結に成功、4月には全日本産業別労働組合会議(産別会議)準備会参加の日本映画演劇労働組合(日映演)の結成の中心になり、日映演東宝支部を組織した。同支部は同年9~10月に待遇改善の要求で50日余の生産管理闘争を行ったが、組合が分裂、第2、第3組合が結成された。48年、会社は経営陣を刷新し、赤字と赤旗の「二つの赤」を追放すると称し、4月16日砧(きぬた)撮影所の270人をはじめ914人を解雇、契約者84人を解除し、6月1日同撮影所を閉鎖した。争議団は世論の支持と友誼(ゆうぎ)団体の応援を得て撮影所を占拠したが、8月19日武装警官1800人、戦車を動員した占領軍兵士の出動で退去を余儀なくされた。争議の長期化で双方疲労し、10月19日組合幹部は自発的に辞表を提出する一方、会社は解雇者の約3分の2を再雇用する条件を出し、195日間に及ぶ争議は解決をみた。
[松尾 洋]
『宮森繁著『東宝争議について』(労働運動史研究会編『占領下の労働争議』所収・1972・労働旬報社)』▽『伊藤雅一著『霧と砦――東宝大争議の記録』(1965・連合通信社)』