陶村(読み)すえむら

日本歴史地名大系 「陶村」の解説

陶村
すえむら

[現在地名]山口市大字陶

新開作によって南側に名田島なたじま村ができるまでは、小郡おごおり(山口湾)の奥に海に面して位置する村であった。東は鋳銭司すぜんじ、西は中下郷なかしもごう、北はきつねみねを境に平野ひらのの各村に接した。村内南部を東西に山陽道が通る。小郡宰判所属。

陶の地名は古代この地で須恵器を製したことによるといわれ、村内北方の山麓には所々に陶窯遺跡があり、現在でも多くの須恵器の破片が散乱する。この地に良質の陶土があり、それを材料としたわけで、近代に至るまで続けられている。平安時代初期、周防鋳銭司が設置されたのは、陶の寺家じけの地で、その後東方潟上かたがみ山に移った。

陶の名は正治二年(一二〇〇)一一月日の周防阿弥陀寺田畠坪付(周防阿弥陀寺文書)に「一丁 矢地里」とみえるのが早い。中世、大内氏の支流右田弘賢はこの地を領し、居館をここに定めて陶氏を称した。しかしその子弘政の時、居館は都濃つの富田とんだ(現新南陽市)に移された。


陶村
すえむら

[現在地名]綾南町陶

萱原かやはら村の北に位置し、その境界に北条ほうじよう池がある。山なりにとがった北端境界に標高三二二メートルのわしノ山、北東に二四六メートルのノ山、中央部に十瓶とかめ山があるほかはゆるい丘陵地。古代の阿野あや羽床はいか(和名抄)の比定地で、鷲ノ山は「播磨風土記」に載る羽若石の産地と考えられている。十瓶山の山麓を中心に当地には奈良・平安時代の須恵器窯跡と瓦窯跡が多く、「延喜式」に載る讃岐国の陶盆一二口ほかの貢進物は讃岐国衙の支配を受けてほとんど当地の窯で生産されていたと考えられている。

慶長一六年(一六一一)一二月二九日の生駒正俊宛行状(三野家文書)で、陶のうち二〇〇石を乃々村忠左衛門に宛行っている。


陶村
すえむら

[現在地名]土佐山田町須江すえ

野地のじ村の北西方、新改しんがい川東岸の沖積平野の一角を占める村で長岡郡に属した。東は香美郡うえ村。明治以降「須江」と記す。「土佐州郡志」に「植田郷之内、東限植村、西限蚊居田村・久次村、南限野地村陣山、北限新改村」とある。村域およびその周辺からは多くの古窯跡が発見され、奈良時代前半から平安時代初期頃にかけて須恵器などの製造に関係した人々が住し、現南国市にあった比江ひえ廃寺・国分こくぶん寺などの瓦や須恵器を製造した。


陶村
すえむら

[現在地名]倉敷市玉島陶たましますえ

服部はつとり村の南に位置する。玉島陶窯跡群や陶神社裏窯跡など古代から中世の窯跡が分布する。村名は百済からの渡来人による陶作に由来すると伝え、また古河古松軒「古川反古」には行基が訪れた際に行基焼という陶器を民に教えたために陶と称したという。永禄(一五五八―七〇)頃と推定される洞松とうしよう(現小田郡矢掛町)の寺領帳に、「陶之村分」として一町一反余・定米五石六斗余とある。天正三年(一五七五)一二月一八日の毛利輝元宛行状(萩藩閥閲録)で「陶村弐百貫地」が桂広繁に宛行われている。寛永備中国絵図に「須恵村」とみえ高三一六石余、岡田藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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