難波町(読み)なにわちよう

日本歴史地名大系 「難波町」の解説

難波町
なにわちよう

[現在地名]中央区日本橋人形町にほんばしにんぎようちよう二丁目・日本橋富沢町にほんばしとみざわちよう

住吉すみよし町の東に続く両側町で、北は高砂たかさご町、南は難波町裏河岸、東は浜町はまちよう堀。明暦三年(一六五七)吉原よしわら移転後、旧吉原のきよう町二丁目跡地に起立した(「御府内備考」など)。町名は他の吉原旧地に起立した町と同様に謡曲からとった(東京府誌)。寛文新板江戸絵図に「なには丁」とある。安永三年小間附町鑑によれば京間一二九間三尺七分、内訳は京間一〇〇間三尺二寸三分と田舎間三一間五寸(京間では二九間四寸七分)、公役金を納めた。


難波町
なにわちよう

下京区西木屋町通松原下ル

ほぼ南北に通る西木屋町にしきやまち通を挟む両側町で、東側には高瀬たかせ川が流れ、西側は河原町かわらまち通にも面する。平安京では京域外で、崇親すうしん院領となっていた。

町儀難波録(久板家文書)に「夫当町ハ(中略)時寛文年中に開発して号新屋鋪分境作九町其一也、名付て難波町ト云」と記され、かも川筋に新堤が築かれた寛文九年(一六六九)から同一〇年にかけ町地として開発されたことが察せられる。町頭九兵衛の代理太兵衛の名で当町西隣の植松うえまつ町あてに出した銀子請取手形(同文書)には、「壱貫八百目」を「今度四条五条之間西側畠地新屋敷ニ被為成御免候ニ付、石垣川堀諸事入用之割トシテ其方持地之割ニ御出シ被成候所実正也、則右之銀休卜源右衛門ヘ急度相渡シ可申候」と記している。


難波町
なにわちよう

[現在地名]岡山市弓之町ゆみのちよう富田町とんだちよう二丁目

外堀端西側にあり、南北の道を挟み東側は武家屋敷、西側は町家の両側町。東は外堀、南は国恩こくおん寺、西は滝本たきもと町・下市しもいち町、北は六番ろくばん町・七番しちばん町。寛永城下絵図では東側は武家屋敷、西は博労ばくろう町の一部。慶安城下絵図には「五右衛門町」とみえる。延宝四年(一六七六)難波町と改名(「諸用留」国富文書)。寛文一一年(一六七一)当町上口の門、下横町の二門が破損し、藩から二二二匁が下されている(同文書)


難波町
なにわまち

[現在地名]岩内郡岩内町字万代まんだい

明治初年(同二年八月―六年の間)から同二六年(一八九三)まで存続した町。岩内市街のうちで、たちばな町の東にある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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