青柳城跡(読み)あおやぎじようあと

日本歴史地名大系 「青柳城跡」の解説

青柳城跡
あおやぎじようあと

[現在地名]館林市青柳 堀の内・萩原苗木

旧日光脇往還の西側堀の内ほりのうち萩原はぎわら苗木なえぎ一帯に位置する。文治四年(一一八八)佐貫広綱赤岩あかいわ(現邑楽郡千代田町)より移り、築城したと伝える。「館林盛衰記」(館林市立図書館蔵)によれば最初館として造られたが、その後、赤井照光に至るまで八代、赤井氏が居城する間に平城の形に改修されたものらしい。はじめの館は南東側の字堀の内と考えられ、南濠は小流を利用し、東西約一一〇メートル・南北約一二五メートル、東・北・南西の三虎口があったようで、これを本郭とし、北西に付加された第二郭は東西約三八〇メートル・南北約二五〇メートル・北西角に土居跡がみられ南面西部は崖端を利用している。


青柳城跡
あおやぎじようあと

[現在地名]坂北村青柳

中世青柳氏の要害城の跡。青柳宿の東方、四阿屋あずまや(一三八七メートル)支脈の尾根上に残る。館跡とともに県史跡。

室町時代の終りまでこの地を領した青柳氏は松本の小笠原氏に属していた。青柳氏は麻績おみ方面まで勢力を伸ばし、麻績(現麻績村)を兼有していたが、のち服部氏が代わって入部している。天文二二年(一五五三)武田晴信侵攻を受けて武田氏に下ったが、武田氏が天正一〇年(一五八二)三月滅びると上杉景勝に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「青柳城跡」の解説

青柳城跡

(長野県東筑摩郡筑北村)
信州の史跡百選指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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