日本歴史地名大系 「青柳宿」の解説 青柳宿あおやぎしゆく 山梨県:南巨摩郡増穂町青柳村青柳宿[現在地名]増穂町青柳町河内(かわうち)路(駿州往還)は鰍沢(かじかざわ)口留番所(現鰍沢町)を抜けると青柳に至り、ここの追分(おいわけ)で甲府へ向かう本道と、沢(ばらざわ)―古市場(ふるいちば)(以上現甲西町)―小笠原(おがさはら)(現櫛形町)―六科(むじな)(現八田村)を経て韮崎に至る駿信往還に分岐する。この青柳追分に戦国期に新たに設置されたのが青柳宿である。宿そのものは古くから存在していたといわれるが(増穂町誌)、天正八年(一五八〇)九月に武田勝頼が当地の地頭で一族の一条信就に対して青柳郷に新宿建設を命じ、そのために三ヵ年にわたる棟別・御普請役を除いた諸役を免除したのが(同月一八日「武田勝頼印判状写」甲斐国古文書)、史料上の初見である。 青柳宿あおやぎしゆく 長野県:東筑摩郡坂北村青柳町村青柳宿[現在地名]坂北村青柳江戸時代の北国西脇往還(善光寺道)の会田(あいだ)宿(現四賀(しが)村)と麻績(おみ)宿(現麻績村)の中間の宿。宿が整備されたのは慶長年間(一五九六―一六一五)松本城に封ぜられた小笠原貞慶の子秀政の時である。秀政の出した慶長一二年の伝馬定書は、佐渡の金山からの金荷大伝馬についてのものである。元禄一一年(一六九八)の会田組青柳町御絵図下吟味帳によると町の長さは東西五町二八間、東の方に横(よこ)町があり、家数はそれを含めて八五軒、ほかに四軒となっている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
事典・日本の観光資源 「青柳宿」の解説 青柳宿 (長野県東筑摩郡筑北村)「信州の民家・街並百選」指定の観光名所。 出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報 Sponserd by