革手城跡(読み)かわてじようあと

日本歴史地名大系 「革手城跡」の解説

革手城跡
かわてじようあと

江戸時代の下川手しもかわて村にあたる地にあったとされる守護土岐氏の城跡。「土岐累代記」に「府城長森ハ地狭クテ、国政ニ不自由トテ、観応ノ頃厚見郡ママ手ト云所ニ新城築キ、一国ノ府トセシム」とみえ、土岐頼康によって築城されたという。これに類似した記事は「土岐斎藤軍記」にもみられるが、守護所が頼康の代に当城に置かれたという確認はない。しかし当城の北に建立された土岐氏の氏寺正法しようぼう(現廃寺)の開基が嫩桂正栄(一二六六―一三五三)であるので、頼康の代に築城されたことは承認できる。

清和源氏の流れをひく土岐氏は光衡の時、承久の乱後、大内惟信の後を継いで美濃の守護となったという。美濃国はのち北条得宗家の支配するところとなったので、鎌倉時代の後半に土岐氏が守護となった徴証はない。しかし一族は美濃の各地で確実に繁衍していった。土岐頼貞は足利尊氏とともに内乱を戦って功をあげ、守護に任ぜられた。頼貞の次男頼遠も初めは足利家の有力な武将として活躍したが、勢力の拡大とともにしだいに傲慢となり、康永元年(一三四二)光厳上皇を襲撃した科により斬罪に処せられた。頼遠の兄頼清の子頼康は、尊氏を助けて室町幕府の安定化に尽力したため、幕府内で重く用いられ、養子康行が家督を継いだ時には美濃・伊勢・尾張三ヵ国の守護となっていた。しかし、明徳元年(一三九〇)における小島合戦に敗れて没落し(康行の乱)、代わって頼康の弟池田頼世(頼忠)が、次いで頼益が美濃の守護となり当城に入った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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