頴娃城跡(読み)えいじようあと

日本歴史地名大系 「頴娃城跡」の解説

頴娃城跡
えいじようあと

[現在地名]頴娃町郡

あつまり川下流左岸、集川支流に挟まれたシラス台地のなかの標高二三六メートルを最高地点とする山城。南に荷辛地にがらち峠がある。獅子しし城・野首のくび(野久尾)城ともいう。薩摩平氏一族河辺常房の二番目の子忠長は、鎌倉初期に頴娃郡を領して頴娃氏を称した(三国名勝図会)。忠長は御家人で、頴娃城の最初の城主となったと伝えられている(薩隅日三州他家古城主来由記)。しかしこの場合の頴娃城は、当城の北西一・五キロにある頴娃古城をさし、実際は平氏系頴娃氏の子孫南北朝期から当城を居城としている。頴娃貞純(貞澄)は延元二年(一三三七)に北朝方(同三年二月五日「指宿成栄軍忠状」指宿文書)、興国三年(一三四二)には南朝方となっており(七月二二日「氏名未詳書状写」阿蘇文書)、永徳元年(一三八一)一〇月二三日頴娃氏は揖宿郡を与えられた(「島津玄久宛行状」地誌備考)。その後、当城には島津元久の弟久豊が入って南殿と称した。応永一〇年(一四〇三)元久の命で久豊は日向穆佐むかさ(現宮崎県高岡町)に移ったため、頴娃氏一族の小牧氏が取立てられ頴娃氏を名乗ったが、同二七年久豊に攻められ逃亡、平氏系頴娃氏は滅びた(以上「三国名勝図会」「山田聖栄自記」)。久豊は肝付兼元の次男兼政を当地に入れたが、肝付氏(伴姓肝付氏)が大隅最大の領主であったことを配慮して兼政を久豊の三男に準じ、藤原姓と十文字紋、および頴娃・揖宿・山川やまがわを与えたという(伴姓頴娃氏正統系図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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