日本歴史地名大系 「風本浦・勝本浦」の解説
風本浦・勝本浦
かざもとうら・かつもとうら
壱岐島壱岐郡にみえる浦。「和名抄」に記される壱岐郡
〔中世〕
弘安の役に際して東路軍は弘安四年(一二八一)五月二一日対馬に上陸、二六日に諸軍が「一岐島忽魯勿塔」に向かって出航、途中大風に遭って将兵一一三人・舵取三六人が行方不明になったという(「高麗史」忠烈王七年五月癸亥条)。永楽一八年(一四二〇)三月二日、朝鮮王朝の回礼使の宋希の一行は「一岐島の干沙毛梁」に到着、博多商人の平方吉久(陳外郎の子)が送った船に迎えられている。西手の島に石で作った窟があり、聞いたところ、丁丑年(一三九七)の回礼使崔公(崔云嗣、ただし崔の派遣は翌々年)の祠が祀られているといい、さらに悪風で波が荒れ、船が沈没した際、船内で酔って臥していた崔公を、その厳格さを恨んでいた乗員はだれも救わず彼だけが死んだので、倭人が石を築いて祀ったものだと答えている(老松堂日本行録)。「海東諸国紀」では壱岐一四浦の一つとして風本浦とみえ、倭訓は間沙毛都于羅と記し、同書の一岐島之図に対馬の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報