舒明天皇の飛鳥岡本宮と,その皇后であった斉明天皇の後飛鳥岡本宮がある。630年(舒明2)10月,舒明天皇は飛鳥岡のそばに,岡本宮を営んだ。宮号は,飛鳥岡と称される丘の麓に造営されたことに基づく。この岡本宮は,636年6月に炎上したが,656年(斉明2),斉明女帝は同じ地に,後飛鳥岡本宮を営んだ。斉明紀の記述では,同年,後飛鳥岡本宮に火災がおこっている。ただし,壬申の乱後,天武天皇は,後飛鳥岡本宮の南に,飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)を営んでいるから,一部分の建物の焼失にとどまったらしい。飛鳥岡本宮の所在地については,《類聚三代格》に引く神護景雲1年(767)12月1日の太政官符にみえる岡本田の記載から,大官大寺(奈良県高市郡明日香村小山)のすぐ東の地とする田村吉永の説が通説化している。しかし,飛鳥岡本宮の宮号の由来となった飛鳥岡を手がかりに考えると,飛鳥坐神社から岡寺にかけての丘陵こそが飛鳥岡であり,飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)伝承地のすぐ北ないし北東の一帯がクローズアップされてくる。発掘調査の進行にともない,飛鳥板蓋宮伝承地が,実は,飛鳥浄御原宮ではないかとの説が有力化しつつあり,その意味でも田村説には再検討の余地がある。
執筆者:和田 萃
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…文献資料によっても,飛鳥板蓋宮の所在地は不分明である。《扶桑略記》は一説云として,飛鳥岡本宮と同地とする説を掲げている。《日本書紀》によれば,飛鳥岡本宮は舒明2年(630)10月~8年6月,後飛鳥岡本宮は斉明2年,天武1年(672)に存在していたことが確実であり,飛鳥板蓋宮の存続していた時期は飛鳥岡本宮と後飛鳥岡本宮の中間であるから,《扶桑略記》の一説が成立する可能性はある。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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