出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
7世紀末の皇居。672年(天武1),壬申の乱の終焉後,大海人皇子は,飛鳥岡本宮の南に宮室を営むことを命じ,その冬に移っている。これが飛鳥浄御原宮であり,翌年2月には,壇場を設けて即位した。一方,《日本書紀》朱鳥1年(686)7月戊午条に,この日朱鳥と改元し,それによって,宮を飛鳥浄御原宮と名づけたことがみえている。《日本書紀》には,新しい宮地に壇を設け,そこに上って即位した記事が散見する。そうした例からみると,天武即位とともに,飛鳥浄御原宮との呼称が生まれたとみてよい。この宮は,673年2月の天武天皇即位から,694年(持統8)12月の藤原京への遷都まで,機能した。この間にあって,《日本書紀》は,この宮の諸施設に関し,比較的詳しく記述しており,大規模な宮であったことが推測される。内裏地域には,大安殿・内安殿・向小殿・御苑・白錦後苑,朝堂地域には,大極殿・外安殿・西庁・朝堂・南門・西門,官衙地域には,法令殿・御窟殿・民部省蔵庸舎屋・神祇官などがあった。ただし,681年(天武10)2月の律令制定,同年3月の帝紀および上古諸事の記定を命じた舞台として,大極殿がみえるものの,一般には,大極殿の成立は,藤原宮に至ってからとされている。
飛鳥浄御原宮の位置については,飛鳥岡本宮の南とする上記の記事と,飛鳥寺とともに真神原に造営されたとする資料(《万葉集》巻二,199)が,大きな手がかりを提供する。喜田貞吉は,《帝都》(1915)で,旧飛鳥小学校付近を想定し,とくに,1902年に須弥山石と道祖神像が小字〈石神〉から発見されたこと,この付近に小字〈ミカド〉の存在することを重視した。現在では,〈石神〉地域が再調査され庭園遺構であること,旧飛鳥小学校の南からは漏刻(ろうこく)の遺構が検出され,両者がともに密接な関係にあることが判明し,その時期も7世紀中葉すぎで,飛鳥浄御原宮よりも少し古い時期のものである。田村吉永は,《飛鳥京藤原京考証》(1965)で,《類聚三代格》に引く神護景雲1年(767)12月1日の太政官符に,岡本田がみえ,それを大官大寺塔跡の東方につづく地域に比定した。そして,岡本田の存在から岡本宮をこの地に想定し,飛鳥浄御原宮を,大官大寺と山田道との地域に求めた。しかし岡本田と飛鳥岡本宮を結びつけるのは少し難しいし,田村説では飛鳥岡にふさわしい丘陵がない。近年,有力になりつつある飛鳥浄御原宮比定地は,現在,伝飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡として,発掘調査が継続されている場所である。出土遺物により,藤原宮直前の宮殿遺構であることが確実である。また,火災痕跡のないところから,この地は飛鳥板蓋宮でもありえない。飛鳥岡を手がかりに,飛鳥岡本宮を考え,その南に飛鳥浄御原宮を想定すると,伝飛鳥板蓋宮跡こそが,天武・持統2代にわたる宮殿遺構である可能性が,一段と高くなってきたように思われる。
執筆者:和田 萃
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672年(天武1)から藤原宮(ふじわらのみや)へ遷都する694年(持統8)までの天武・持統両朝の宮。『日本書紀』には、この宮は舒明(じょめい)・斉明(さいめい)朝の岡本宮(おかもとのみや)の南に営まれ、飛鳥寺(あすかでら)と同じ真神原(まかみがはら)にあったとみえ、また天武天皇が朝な夕なに賞(め)でたという「神岳(かみおか)の山の黄葉(もみじ)」(『万葉集』巻2―159)の神奈備山(かんなびやま)は、橘寺(たちばなでら)背後の「ミハ山」であろうから、この宮殿は明日香(あすか)村岡(おか)の国史跡「伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)」付近にあったものであろう。この地域の発掘調査が近年継続して進められ、付近一帯に宮殿遺構とみられる大規模な建物群が、重層的に少なくとも3回存在することが明らかになった。その最上層から天武10年の年紀をもつ木簡が出土し、浄御原宮の遺構である可能性が高まった。そこには東西158メートル、南北198メートルの内郭(ないかく)と、その東南に東西94メートル、南北55メートルの東南郭(その中に9間×5間の大極殿(だいごくでん)相当建物がある)があり、さらにそれらを取り巻く外郭(がいかく)施設が確認され、その中に官衙(かんが)や苑池(えんち)が配される構造が徐々に明らかにされつつある。『日本書紀』には浄御原宮の殿舎として、新宮(にいみや)・旧宮(ふるみや)の別のほか大極殿、大安殿(おおあんどの)、内安殿(うちのあんどの)、外安殿(とのあんどの)・向小殿(むかいのこあんどの)、西庁(にしのまつりごとどの)などがみえる。
[狩野 久]
『奈良県教育委員会編『飛鳥京跡1、2』(1971、1980)』▽『岸俊男著『日本古代宮都の研究』(1988・岩波書店)』▽『今泉隆雄著『古代宮都の研究』(1993・吉川弘文館)』▽『林部均著『古代宮都形成過程の研究』(2001・青木書店)』▽『小澤毅著『日本古代宮都構造の研究』(2003・青木書店)』
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天武・持統天皇の宮。672年(天武元)壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が飛鳥岡本宮の南に新宮を造営,翌年ここで即位して以来,694年(持統8)の藤原宮遷都まで機能した。宮号は地名ではなく,686年の朱鳥(しゅちょう)改元にともなう嘉号による命名とする説がある。「日本書紀」には大極殿(だいごくでん)・朝堂など充実した殿舎名称が散見される。比定地としては伝飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡上層遺構(現,奈良県明日香村岡)が有力視されるが,朝堂は確認されていない。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…飛鳥浄御原宮と藤原宮にみる殿舎名。両宮にみえる大安殿は宴,賜物などの場として使用され,親王,侍従らを召しているところからみると内裏内の中心的建物と考えられる。…
※「飛鳥浄御原宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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