女帝。第35代とされる皇極(こうぎょく)天皇(在位642~645)が重祚(ちょうそ)して第37代とされる斉明天皇(在位655~661)と諡(おくりな)される。名は宝(たから)。和風諡号(しごう)は天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇。茅渟(ちぬ)王の皇女。母は吉備(きび)姫王で、孝徳(こうとく)天皇の同母姉。初め高向(たかむこ)王(用明(ようめい)天皇の孫)との間に漢(あや)皇子を生み、その後に田村(たむら)皇子(舒明(じょめい)天皇)との間に葛城(かずらき)皇子(天智(てんじ)天皇)、間人(はしひと)皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人(おおあま)皇子(天武(てんむ)天皇)を生んだ。舒明天皇の即位とともにその皇后にたち、天皇の死のあと即位した(皇極天皇)が、645年(大化1)6月の蘇我(そが)本宗家滅亡事件によって譲位。第36代孝徳天皇の没後、皇祖母尊として在(あ)った飛鳥(あすか)でふたたび即位し、飛鳥川原宮、ついで後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)に移った。その後も大土木事業をおこしたが、とくに石上山(いそのかみやま)に通じる大水渠(すいきょ)を、時人は狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)といったという。斉明女帝の政治は、皇太子中大兄(なかのおおえ)の輔(たす)けを受けて進められたが、有間(ありま)皇子の謀殺事件、東北や粛慎(みしはせ)の蝦夷(えみし)征討をはじめ国内政局は安定せず、国際的には朝鮮関係のうち、とくに対新羅(しらぎ)関係が緊迫した。そして、唐・新羅連合の圧力に苦しむ百済(くだら)の救援要請を受け、660年(斉明天皇6)から百済救援軍派遣の準備を進め、翌年には自身も筑紫(つくし)に出陣し朝倉宮を本営とした。しかし、ここで病となり、7月に没した。陵墓は奈良県高市(たかいち)郡の越智崗上(おちのおかのうえ)陵。
[門脇禎二]
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…後に重祚して斉明天皇。第35代,第37代に数えられる天皇。…
…仲哀天皇の妃で記紀の新羅遠征説話の主人公,また応神天皇の母とされる。別名,気長足姫(おきながたらしひめ)尊(記では息長帯比売命)。
[神功皇后伝説の大要]
熊襲(くまそ)を撃つため筑紫に赴いた仲哀天皇は,海のかなたの宝の国を授けようという神託を得る。この神言は武内宿禰(たけうちのすくね)が請い,神がかりした神功皇后を通じて告げられた。その宝の国とは先進文明に輝く朝鮮半島諸国のことであったが,これを信じなかった仲哀天皇は急死する。…
※「斉明天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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