飯岡助五郎(読み)イイオカノスケゴロウ

デジタル大辞泉 「飯岡助五郎」の意味・読み・例文・類語

いいおか‐の‐すけごろう〔いひをか‐すけゴラウ〕【飯岡助五郎】

[1792~1859]江戸後期の博徒ばくと相模さがみの人。下総しもうさ飯岡(千葉県旭市東部)で飯岡浜一帯を縄張りとし、笹川繁蔵と勢力争いをした。講談浪曲天保水滸伝てんぽうすいこでん」に登場する。

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改訂新版 世界大百科事典 「飯岡助五郎」の意味・わかりやすい解説

飯岡助五郎 (いいおかのすけごろう)
生没年:1792-1859(寛政4-安政6)

江戸後期の博徒であり網元。相模国三浦郡公郷村の出身。18歳のころ,江戸相撲の友綱部屋の弟子となったが,友綱の死で1年余で廃業し,下総国海上郡飯岡に流れて漁師となる。25歳の1817年(文化14),飯岡一帯に縄張りをもつ博徒の親分でしかも網元である銚子の五郎蔵の子分となり,22年飯岡浜一帯の縄張りを譲り受ける。助五郎も網元を正業とし,一方,博徒でありながら関東取締出役の“道案内”役として十手を預る“二足わらじ”であった。44年(弘化1)笹川繁蔵と縄張りを争い,いわゆる〈大利根河原の血闘〉という大げんかをした。その後,47年繁蔵を殺し,49年には繁蔵の子分勢力(せいりき)富五郎を自殺させ,利根川べりに勢力を張った。50年(嘉永3)江戸の講釈師宝井琴凌(きんりよう)によってこれら博徒の闘争を描いた《天保水滸伝》が講談となり,以後浪曲などにもうたわれ,繁蔵とともに助五郎の名が有名となった。
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朝日日本歴史人物事典 「飯岡助五郎」の解説

飯岡助五郎

没年:安政6.4.14(1859.5.16)
生年:寛政4(1792)
江戸後期の侠客。本姓は石渡氏。相模国(神奈川県)三浦郡公郷村山崎の生まれといわれる。幼時から大力の持ち主で,誘われて江戸相撲年寄友綱良助に入門,四股名綱ケ崎を名乗ったが,廃業後干鰯景気で沸く上総九十九里浜の作田浜の網元文五郎の漁師となった。多くの舟子を必要とする漁場にあって舟子を束ねる顔役として売り出し,博徒の親分に成長した。のち下総飯岡浜に移住し,一家を構えた。天保11(1840)年には相撲会所から「近国近在相撲世話人」の証状をもらい,また関東取締出役の道案内を務める大親分となったが,下総笹川河岸を縄張りに台頭してきた新興の笹川繁蔵と対決することになる。同15年関東取締出役から繁蔵召し捕りを命ぜられたことから,対決は頂点に達し,大利根河原の決闘となるが,召し捕りに失敗し,借牢の処分を受けるはめとなった。弘化4(1847)年繁蔵を暗殺,嘉永2(1849)年取締出役が残党の勢力富五郎らを自殺させたことで一件は落着する。この事件は講談,浪曲の「天保水滸伝」となって後世に喧伝されるが,終始武闘派で殺された繁蔵に比し,助五郎はお上手先を務め,勝利したため,判官びいきも手伝って悪役の役回りとなった。飯岡で没し,光台寺に葬られた。

(高橋敏)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「飯岡助五郎」の意味・わかりやすい解説

飯岡助五郎
いいおかのすけごろう
(1792―1859)

江戸後期の博徒(ばくと)。講談、浪曲で有名な『天保水滸伝(てんぽうすいこでん)』に登場する。相模(さがみ)国三浦郡公郷(くごう)村(神奈川県横須賀市)の生まれ。下総(しもうさ)国飯岡(千葉県旭(あさひ)市)に流れて男をあげ、銚子(ちょうし)の五郎蔵より飯岡浜一帯の縄張りを譲り受け一本立ちの貸元(かしもと)となる。銚子飯沼(いいぬま)陣屋から十手取縄(じってとりなわ)を預かり、二足のわらじをはく。笹川(ささがわ)(千葉県香取(かとり)郡東庄(とうのしょう)町)の繁蔵(しげぞう)と勢力を張り合い、1844年(弘化1)8月6日、笹川に乗り込むが失敗(世にいう大利根(おおとね)河原の決闘)。安政(あんせい)6年4月14日没。墓所は旭市飯岡の光台寺。古老によると晩年の助五郎は、近所の子供たちから親しまれる好々爺(こうこうや)であったという。旭市飯岡の玉崎(たまさき)神社の境内に助五郎の顕彰碑がある。

[藤野泰造]

『伊藤實著『飯岡助五郎』(1978・崙書房・ふるさと文庫)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「飯岡助五郎」の解説

飯岡助五郎 いいおかの-すけごろう

1792-1859 江戸時代後期の博徒。
寛政4年生まれ。下総(しもうさ)飯岡(千葉県)の網元,銚子(ちょうしの)五郎蔵の跡目をつぎ,さらに関東取締出役(しゅつやく)の下役となる。利根川沿いの縄張りをあらそい,天保(てんぽう)15年笹川(ささがわの)繁蔵と大利根河原で決闘し,講談などに「天保水滸伝(すいこでん)」としてえがかれた。安政6年4月14日死去。68歳。相模(さがみ)(神奈川県)出身。

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世界大百科事典(旧版)内の飯岡助五郎の言及

【平手造酒】より

…実名は平田深喜という。一説によると,笹川繁蔵は平田を飯岡助五郎方のスパイと疑い,出入りの直前に刀を取りあげてしまったので,平田はやむをえず,やくざ物の脇差で戦ったが,すぐに鍔元より折れ,11ヵ所の切傷を受け落命したという。37~38歳ごろであった。…

※「飯岡助五郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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