江戸後期の博徒であり網元。相模国三浦郡公郷村の出身。18歳のころ,江戸相撲の友綱部屋の弟子となったが,友綱の死で1年余で廃業し,下総国海上郡飯岡に流れて漁師となる。25歳の1817年(文化14),飯岡一帯に縄張りをもつ博徒の親分でしかも網元である銚子の五郎蔵の子分となり,22年飯岡浜一帯の縄張りを譲り受ける。助五郎も網元を正業とし,一方,博徒でありながら関東取締出役の“道案内”役として十手を預る“二足わらじ”であった。44年(弘化1)笹川繁蔵と縄張りを争い,いわゆる〈大利根河原の血闘〉という大げんかをした。その後,47年繁蔵を殺し,49年には繁蔵の子分勢力(せいりき)富五郎を自殺させ,利根川べりに勢力を張った。50年(嘉永3)江戸の講釈師宝井琴凌(きんりよう)によってこれら博徒の闘争を描いた《天保水滸伝》が講談となり,以後浪曲などにもうたわれ,繁蔵とともに助五郎の名が有名となった。
執筆者:森 安彦
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(高橋敏)
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江戸後期の博徒(ばくと)。講談、浪曲で有名な『天保水滸伝(てんぽうすいこでん)』に登場する。相模(さがみ)国三浦郡公郷(くごう)村(神奈川県横須賀市)の生まれ。下総(しもうさ)国飯岡(千葉県旭(あさひ)市)に流れて男をあげ、銚子(ちょうし)の五郎蔵より飯岡浜一帯の縄張りを譲り受け一本立ちの貸元(かしもと)となる。銚子飯沼(いいぬま)陣屋から十手取縄(じってとりなわ)を預かり、二足のわらじをはく。笹川(ささがわ)(千葉県香取(かとり)郡東庄(とうのしょう)町)の繁蔵(しげぞう)と勢力を張り合い、1844年(弘化1)8月6日、笹川に乗り込むが失敗(世にいう大利根(おおとね)河原の決闘)。安政(あんせい)6年4月14日没。墓所は旭市飯岡の光台寺。古老によると晩年の助五郎は、近所の子供たちから親しまれる好々爺(こうこうや)であったという。旭市飯岡の玉崎(たまさき)神社の境内に助五郎の顕彰碑がある。
[藤野泰造]
『伊藤實著『飯岡助五郎』(1978・崙書房・ふるさと文庫)』
…実名は平田深喜という。一説によると,笹川繁蔵は平田を飯岡助五郎方のスパイと疑い,出入りの直前に刀を取りあげてしまったので,平田はやむをえず,やくざ物の脇差で戦ったが,すぐに鍔元より折れ,11ヵ所の切傷を受け落命したという。37~38歳ごろであった。…
※「飯岡助五郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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