武器をもってする闘争で,当事者が合意していること,原則として1対1であること,なんらかの形式手続をそなえていることを特徴とする。現在ではどの国でも法的に禁止されているが,中世には裁判手続の一環として公的な性格を帯びることもあった。紛議を決闘で解決する風習はゲルマン起源で,民族移動によって西欧に拡大し,さらにノルマン征服によってイギリスに導入された。501年のブルグント王勅令は決闘を認めているし,858年教皇ニコラウス1世は決闘を正当かつ適法の闘争とした。勝敗によっていずれに神の加護が,つまり正義があるかが知られると考えたので,決闘は神明裁判の一種であった。法廷の判決を不服とする場合,あるいは被告が告発内容を虚偽であるとした場合,決闘に訴えることができた。決闘はあらかじめ定められた時,場所,武器によって,第三者の立会のもとに公開で行われた。双方とも,自分の正しいこと,所定の武器以外を用いないこと,呪術魔法の具を携えないことを十字架と聖書にかけて誓ったうえで,闘争した。観衆に対しては,勝敗に影響を及ぼすことを恐れて,厳罰をもって沈黙が強制された。普通,正午から星の出るまでが決闘の時間とされ,その間に決着のつかないときは挑戦側の敗北とされた。敗者は踵をつかんで場外に引きずり出され,なお生きていれば処刑された。当事者が女性,病人,聖職者など戦闘能力を欠く場合には決闘代理人(チャンピオン)を立てることができた。
古くはフランス王ルイ7世が抑制策を試みているが,各国為政者の態度は必ずしも一定せず,中世を通じて盛んに行われた。近世ではリシュリューが強硬な禁止策を取り,1626年王命に反して決闘したかどでブートビル伯およびブーブロン侯を死刑に処した。イギリスでは1818年殺人罪で告発されたエーブラハム・ソーントンなる者が決闘による潔白の証明を申し出,法廷がこれを支持した例がある。応戦者がなかったために実際に決闘は行われなかったが,これを機として翌年決闘裁判は正式に廃絶された。近世,裁判手続としての決闘が行われなくなった後も,私闘としての決闘の風習は根強く存続した。フランスでは1589年から1608年までに決闘で落命した者およそ8000と伝えられるし,比較的決闘の少なかったイギリスでもジョージ3世治世に172件の決闘が行われ死者91人を出している。貴族や紳士の間でささいなことに侮辱を感じ,名誉のためと称して挑戦することが流行したのである。手袋の片方を投げるのが挑戦の作法で,これを拾い上げれば応諾の意思表示とされた。なかには愛人に剣技を学んで女流決闘家となったオペラ歌手モーパン(17世紀末)のごとき例もある。19世紀になると致命傷を与えないことが多くなり,また刑法上の罪とされるようになったが,軍人の決闘は例えばドイツ陸軍のように第1次世界大戦まで認められていた例があるし,またドイツ学生団体では勇気を誇示する手段として20世紀に入ってもこの風習をもっていた。
執筆者:渡邊 昌美
現行の日本の刑法典には決闘罪の規定はないが,1889年公布の〈決闘罪ニ関スル件〉という別の法律があって,決闘挑応罪,すなわち,決闘を申し込みまたはこれに応ずる行為(刑は6ヵ月以上2年以下の懲役)をはじめ,実際に決闘をすること(刑は2年以上5年以下の懲役),決闘の立会人になること,場所を提供すること(刑はともに1ヵ月以上1年以下の懲役)などを罰している。あまり使われてはいないが,暴力団員同士の果し合いなどに適用されている場合もある。改正刑法草案は,決闘挑応罪を変形して,〈凶器を用いて闘争することを申し込み,又はその申込みを承諾した者〉を2年以下の懲役,5万円以下の罰金,拘留または科料に処する規定を設けた(改正刑法草案269条)。
執筆者:松尾 浩也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
憎悪や不和、あるいは栄光や名誉回復のために、相互の同意により、あらかじめ打ち合わせたルールを遵守して行われる闘争のこと。一般の決闘は、本人あるいは代表者による1名対1名でなされるが、1名対数名、あるいは数名対数名の場合もある。また決闘にはそれぞれの文化でのルールがあるが、証人・介添人の立会いをもって行われるものが多い。決闘の原型は、個人間の紛争を格闘によって解決していたゲルマン民族の風習とされているが、それが神の審判として合法化されたのは西ヨーロッパ中世である。すなわち「裁判上の決闘」とよばれるもので、神は正しいほうに味方するという信念のもとに、決闘は神の審判と考えられた。ただし決闘の有資格者は、封建社会なので貴族や自由人に限られていた。こうした決闘は10~12世紀のヨーロッパで全盛時代を迎えたが、1215年ラテラン公会議で禁止された。さらに1258年のルイ9世の勅令によっても禁止された。しかし決闘はそれでも絶えることなく続き、15世紀の終わりごろからフランスで「名誉のための決闘」が生まれ、とくに上流社会の人々の間で盛んに行われた。
決闘での武器は剣、フランス革命以後はピストルも現れたが、両者平等の条件で争うことが前提なので、剣を細身のまっすぐな三角の刃に規定するとか、ピストルならその種類や弾丸の数あるいは距離を互いに歩数でどの程度とるかなど、決闘上のルールや作法、あるいは服装さえも規定された。
こうした決闘はヨーロッパからアメリカにも及び、ここでもとくに開拓時代しばしば行われた。日本では、戦国時代から江戸時代にかけての武士の果たし合いがこの決闘に相当するが、後年は博徒(ばくと)や侠客(きょうかく)の間で流行した。現代では決闘は、法律で禁止されている。
[犬馬場紀子]
決闘の風習や考え方は、ヨーロッパ以外の諸社会においても、近代以前に広くみられた。これらの社会では、犯罪への報復的制裁の手段として、決闘が制度化されている場合もある。オーストラリア先住民の間では、違法行為者の血を流すための闘いが行われた。グリンガイ人では、いちばん近くの武器を手にして闘う風習があり、重罪の場合、盾を持った加害者が、被害者側の投げ付ける多くの槍(やり)のなかに立つ。クルナイ人でも、呪(のろ)い殺されたとされる者の親族の者は、告発された者と殴り合いを行う。これらの決闘は普通一定の手続・規制にのっとり、部族の人々の見守るなかで行われる。決闘の慣習は、社会が無制限の報復から無秩序に陥るのを防ぐ手段の一つとなっていた。
[田村克己]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…そのころから豊富な経歴を生かした,中・短編小説が続々と生まれ,《サーカスで》(1902)はL.トルストイの賞讃を得た。注目を集めた《決闘》(1905)は,閉鎖的で暗澹たる軍人生活に恋をからませている。特に優れているのは,物語作者としての手腕が発揮された《ルイブニコフ大尉》(1906)と《柘榴石(ざくろいし)の腕輪》(1911)の2編。…
…しかし,国王権力ないし領主権力の下での裁判が犯罪に対する制裁の第一手段として確立されても,フェーデは全廃されず,二次的ないし補充的手段として残存した。 絶対主義・啓蒙主義時代には,刑法・刑事訴訟手続なども整備され,フェーデは消滅し,私闘や決闘は過去の遺風となった。近代では,私的制裁,私刑は国家によって禁じられるようになったが,アメリカ開拓時代の西部におけるリンチが私刑の例としてあげられる。…
※「決闘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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