飯盛城跡(読み)いいもりじようあと

日本歴史地名大系 「飯盛城跡」の解説

飯盛城跡
いいもりじようあと

[現在地名]大東市北条、四條畷市南野

生駒山地が男山おとこやま丘陵と接する北西支脈上の三角点(飯盛山、三角点は北条に属する)標高三一四・三メートル付近にあり、城跡は北条ほうじよう南野みなみのにまたがる。河内の平野部を眼下に一望する要害で、東高野街道を抑える格好の位置である。南北朝初期、四条縄手合戦のとき、足利方高師直の部将が飯盛山に陣を取ったことが「太平記」巻二六(四条縄手合戦事)にみえるが、本格的な城郭ではなかったようである。応仁の乱とその後の北河内をめぐる戦闘では、もっぱら野崎のざき城が使用されており、当城のことは記録に現れない。大永七年(一五二七)細川高国が近江に逃亡し、室町幕府が一時的に崩壊して和泉堺に細川晴元の政権が成立したとき、河内では守護畠山稙長に替わって畠山義英が事実上の支配者となり、被官の木沢長政が守護代的地位に立って実権を掌握し、この飯盛山に城郭を構築した。ところが木沢氏は義英を離れ、細川晴元に接近してその被官となったため、怒った義英は享禄四年(一五三一)八月、飯盛城に長政を攻めた(二水記・実隆公記)。この時は晴元が摂津中島なかじま(現大阪市)で義英軍を破ったため小康を得たが、翌年五月から六月にかけ、再び義英は飯盛山に長政を攻め、晴元は助けを石山いしやま本願寺(跡地は現東区)に求め、一向一揆二万の大軍が飯盛城を取囲み、義英は敗走し、敗死した(言継卿記・細川両家記)

飯盛城跡
いいもりじようあと

[現在地名]西区飯盛

飯盛山の山頂に築かれた中世の城。飯守城、飯盛山城ともいう。山頂には飯盛三所権現(現飯盛神社)の上宮が置かれていたが、文和二年(一三五三)三月、九州探題一色範氏、同直氏によって城が築かれた(「北肥戦誌」など)。同年四月二日には直氏とみられる人物から、飯盛山に陣を取った合戦の恩賞として上宮に筑前国元岡兵衛次郎跡田地頭職が寄進された(「某地頭職寄進状」青柳文書/南北朝遺文(九州編)三)

飯盛城跡
いいもりじようあと

[現在地名]佐世保市相浦町

相浦あいのうら川の河口部右岸の飯盛いいもり(城山・愛宕山とも、二五九メートル)の南東麓に築かれた中世の山城跡。惣領家たる相神浦松浦氏の最後の本拠とされる。同氏は平戸松浦氏の進攻に備えて、天文四年(一五三五)少弐氏・有馬氏の援助を受けて築城したという(「印山記」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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