馬場鍈一 (ばばえいいち)
生没年:1879-1937(明治12-昭和12)
大正・昭和期の財政家,政治家。東京帝国大学法科を卒業後大蔵省に入る。のち法制局に転じ,1922年3月長官となる。同年12月貴族院議員となり,近衛文麿を助けて活動した。27年日本勧業銀行総裁となり,37年までその任にあった。二・二六事件で大蔵大臣高橋是清が暗殺されたあと36年3月,軍部に推されて広田弘毅内閣の蔵相となり,高橋前蔵相の公債漸減政策の放棄を表明し,37年度予算の編成に当たっては軍部の要求する軍事費の急膨張を認め,前年度の予算規模を3分の1近く上回る予算を組み,そのための財源を公債増発と増税に求める方針をうち出した。また公債政策を円滑に遂行するため三分半利国債を発行するなど低金利政策をとった(馬場財政)。こうした政策は物価の暴騰,国際収支の悪化,公債の売行き鈍化を生み,財界に不安を与え,結局37年度予算は,37年2月に成立した林銑十郎内閣の結城豊太郎蔵相によって修正された。37年6月の第1次近衛内閣では内相に就任したが同年12月病気のため辞職,同月病没した。
執筆者:坂本 雅子
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馬場鍈一
ばばえいいち
(1879―1937)
大正・昭和初期の官僚、政治家。明治12年10月5日、東京の山本家に生まれ、のちに馬場家の養子となる。東京帝国大学法科卒業。1903年(明治36)大蔵省に入り、韓国財政監査官、法制局参事官を経て、1922年(大正11)法制局長官、貴族院議員(研究会所属)、1927年(昭和2)日本勧業銀行総裁となる。1936年、二・二六事件直後の広田弘毅(ひろたこうき)内閣の蔵相となるや、公債漸減主義の放棄、増税、低金利政策、すなわち高橋財政からの決別を表明。性急に軍拡、増税を目ざした馬場財政は、財界にも大きな動揺を与えた。1937年6月、軍部の推薦で第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の内相となったが、同年12月21日病没。
[疋田康行]
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馬場鍈一
ばばえいいち
1879.10.5~1937.12.21
大正・昭和前期の官僚・財政家・政治家。東京都出身。馬場兼の養子で旧姓山本。東大卒。1903年(明治36)大蔵省に入省。韓国統監府書記官などをへて22年(大正11)に法制局長官。同年貴族院議員となる。27年(昭和2)日本勧業銀行総裁として金融恐慌の処理などに実績をあげた。のち広田内閣の蔵相に就任し,第2次大戦の戦時体制構築の一環として,所得税増税や本格的地方財政調整制度の導入を含む抜本的税制改革案を作成した。37年軍部の要請で第1次近衛内閣の内相に就任するが,在職中に病没した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
馬場鍈一 ばば-えいいち
1879-1937 大正-昭和時代前期の官僚,政治家。
明治12年10月5日生まれ。大蔵省勤務をへて,大正11年法制局長官。同年貴族院議員。昭和2年日本勧業銀行総裁。11年広田内閣蔵相となり,軍拡予算をくみ,増税と公債増発を断行した。翌年第1次近衛(このえ)内閣内相。昭和12年12月21日死去。59歳。東京出身。東京帝大卒。旧姓は山本。
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