日本大百科全書(ニッポニカ) 「林銑十郎内閣」の意味・わかりやすい解説
林銑十郎内閣
はやしせんじゅうろうないかく
(1937.2.2~1937.6.4 昭和12)
第70議会会期中に総辞職した広田弘毅(ひろたこうき)内閣の後を受けて成立した内閣。元老西園寺公望(さいおんじきんもち)は後継首班に陸軍の長老で前朝鮮総督の宇垣一成(うがきかずしげ)を推薦したが、陸軍中堅幕僚の強い反対で宇垣内閣は流産し、かわって元陸相の林銑十郎が組閣を命ぜられた。当初は興中公司(こうちゅうコンス)社長十河信二(そごうしんじ)や参謀本部の石原莞爾(いしはらかんじ)大佐ら「満州組」の意向に沿って組閣工作を進めたが、陸軍首脳部の反発が強かったため、石原らを退けて陸海軍首脳部の推す候補を受け入れ、2月2日に内閣を発足させた。内閣は政友会、民政党の閣僚も議会の支持勢力ももたずに出発し、「祭政一致」という神がかり的政綱を発表、佐藤尚武(さとうなおたけ)外相のもとで、日中関係改善をスローガンに、華北分離工作を修正して国防資源獲得のための華北経済開発促進を重視する一方、資本の擁護の立場から結城豊太郎(ゆうきとよたろう)蔵相のもとで「軍財抱合財政」を推進した。議会は2月15日に再開されたが、予算案を成立させたのちの議会最終日に突如解散した。総選挙で政党に打撃を与え、一挙に親軍政党をつくろうとしたのである。しかしこれは「食い逃げ解散」として国民の不評を買い、総選挙の結果は政党の大勝、内閣の惨敗となった。林内閣は選挙後も居座りを策したが、野党の倒閣運動が高まり、5月31日総辞職した。後継内閣は6月4日近衛文麿(このえふみまろ)によって組織された。
[粟屋憲太郎]
『塚田昌夫著『林内閣』(1938・近衛内閣編纂所)』▽『林茂・辻清明編『日本内閣史録3』(1981・第一法規出版)』