近衛文麿(読み)このえふみまろ

精選版 日本国語大辞典 「近衛文麿」の意味・読み・例文・類語

このえ‐ふみまろ【近衛文麿】

政治家。公爵。篤麿の長男。名は「あやまろ」とも。東京出身。京都帝大法科卒。昭和八年(一九三三)貴族院議長。同一二年組閣。同一五年第二次内閣を組閣。大政翼賛会を設立し、日独伊三国同盟を締結。他方、日米衝突回避に努力したが失敗。第三次内閣総辞職後、日米開戦に至る。戦後、内大臣府御用掛として憲法改正調査に着手したが、戦犯指定を受けて服毒自殺。明治二四~昭和二〇年(一八九一‐一九四五

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デジタル大辞泉 「近衛文麿」の意味・読み・例文・類語

このえ‐ふみまろ〔コノヱ‐〕【近衛文麿】

[1891~1945]政治家。東京の生まれ。篤麿あつまろの長男。昭和12年(1937)内閣を組織し日中戦争に突入。第三次内閣では東条英機陸相の対米主戦論を抑えきれず総辞職。戦後、戦犯に指名され、服毒自殺。
杉森久英によるの評伝。昭和61年(1986)刊行。翌昭和62年(1987)、第41回毎日出版文化賞受賞。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「近衛文麿」の意味・わかりやすい解説

近衛文麿
このえふみまろ
(1891―1945)

大正・昭和時代の政治家。「このえあやまろ」とも読む。1891年(明治24)10月12日、明治の国権主義者で、貴族院議長・枢密顧問官などを歴任した篤麿(あつまろ)の長男として東京市に生まれる。母衍子(さわこ)は文麿の生後8日目に死去し、衍子の実妹前田貞子(ともこ)が篤麿の後妻となる。指揮者秀麿(ひでまろ)は異母弟。1904年(明治37)父が死去し、不幸な少年時代を過ごした。学習院初等科・中等科から第一高等学校、京都帝国大学法科大学に学んだ。京都帝大在学中の1913年(大正2)毛利千代子と結婚。河上肇(かわかみはじめ)の教えを受け、イギリスの作家オスカー・ワイルドの『社会主義下の人間の魂』を翻訳して『新思潮』1914年5月号と6月号に発表し、発売禁止処分を受けたこともある。卒業後内務省に入り、1919年西園寺公望(さいおんじきんもち)全権の随員としてベルサイユ講和会議に出席した。五摂家(ごせっけ)の筆頭、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)から数えて46代目という名門の出身であるところから、若くして華族界のホープと目された。1916年10月満25歳になると同時に貴族院議員となり、1922年9月研究会入会を経て1927年(昭和2)11月火曜会を結成、1931年1月貴族院副議長、1933年6月同議長に就任した。若くして論文「英米本位の平和主義を排す」(『日本及日本人』1918年12月号)を発表し、「正義人道に本(もとづ)く世界各国民平等生存権の確立の為(ため)」、「英米本位の平和主義」と「経済的帝国主義を排して各国をして其(その)植民地を開放せしめ」、日本の進路を確保すべきであると論じていた。こうした現状打破的な考えから、満州事変国際連盟脱退などの日本の政策を高く評価したことが、当時のファッショ化しつつあった時流に投じ、首相候補の一人に数えられるに至った。陸軍の皇道派に親近感をもち、1936年の二・二六事件直後には組閣の大命を受けたが、健康を理由に拝辞した。

 翌1937年6月与望を担って第一次内閣を組織したが、7月7日に日中戦争が勃発(ぼっぱつ)した。政府は初め不拡大方針をとったが、軍部に押し切られて全面戦争に突入した。1938年1月16日「国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」と声明して平和への道を自ら閉ざし、11月3日「東亜新秩序建設」が日本の戦争目的であり、国民政府が「更生ノ実ヲ挙ゲ」てこれに参加するなら歓迎すると声明、さらに12月22日近衛三原則(善隣友好、共同防共、経済提携)を発表して汪兆銘(おうちょうめい)政権擁立工作を進め、中国侵略継続の意図を明らかにした。1939年1月総辞職して枢密院議長に就任、同時に平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣の無任所大臣を務めた。1940年7月第二次内閣を組織し、新体制運動を展開して、10月大政翼賛会を結成、日本ファシズムの中心組織をつくりあげた。

 また日独伊三国同盟締結後、日米交渉を進め、これに反対する松岡洋右(まつおかようすけ)外相を排除するためいったん総辞職、1941年7月第三次内閣を組織したが、東条英機(とうじょうひでき)陸相の反対にあって日米交渉は行き詰まり、10月総辞職した。

 1944年東条内閣打倒を図り、1945年2月近衛上奏文を天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。敗戦後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣に副首相格の国務相として入閣、憲法改正などにあたったが、戦犯に指名され、12月16日服毒自殺した。長身端麗にして聡明(そうめい)、「聞き上手」は有名で多くの支持者を得た反面、気力と決断力に欠け、彼自身は内心日中戦争の拡大に賛成ではなかったが、断固たる処置をとらず、戦争拡大を許した政治責任は重大であった。

[木坂順一郎]

『矢部貞治著『近衛文麿』上下(1951~1952・近衛文麿伝記編纂刊行会)』『矢部貞治著『近衛文麿』(1958・時事通信社)』『共同通信社『近衛日記』編集委員会編『近衛日記』(1968・共同通信社開発局)』『筒井清忠著『近衛文麿――教養主義的ポピュリストの悲劇』(岩波現代文庫)』


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百科事典マイペディア 「近衛文麿」の意味・わかりやすい解説

近衛文麿【このえふみまろ】

軍部を中心とする勢力にかつがれて三たび首相となった昭和の貴族政治家。近衛篤麿の長子。東京生れ。公爵。一時東大哲学科に学び,京大法科卒。1918年西園寺公望の随員としてベルサイユ講和会議に出席。1933年貴族院議長,1937年第1次内閣を組織,盧溝橋事件をはじめとする日中戦争の長期化を防ぎ得ず退陣。1940年第2次内閣を組織,組閣前から起こしていた新体制運動を発展させ大政翼賛会を創立,日独伊三国同盟を締結した。1941年第3次内閣を組織したが日米交渉失敗や中国撤兵をめぐる東条英機との対立などのため退陣。第2次大戦後東久邇内閣の国務相として憲法改正案の起草にあたったが,戦犯容疑者に指名されて服毒自殺。弟は近衛秀麿。→近衛文麿内閣
→関連項目麻生久有馬頼寧尾崎秀実木戸幸一近衛声明西園寺公一社会大衆党重臣昭和研究会新体制運動大本営政府連絡会議細川護煕陽明文庫翼賛議員同盟若槻礼次郎

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改訂新版 世界大百科事典 「近衛文麿」の意味・わかりやすい解説

近衛文麿 (このえふみまろ)
生没年:1891-1945(明治24-昭和20)

軍部を中心とする勢力にかつがれて三たび首相となった貴族政治家。五摂家の筆頭の家柄で,貴族院議長,公爵近衛篤麿の長男であるが,出生直後に母を,少時に父を失う経験をもった。アジア主義者の父の因縁で頭山満ら右翼との関係も深いが,一高を経て東京帝国大学哲学科に入り,京都帝国大学法科に転じて河上肇らの指導もうけた。1919年のパリ講和会議には西園寺公望らの全権随員として参加したが,その直前に発表した〈英米本位の平和主義を排す〉には,西園寺の国際協調主義とちがってアジア主義と〈持たざる国〉の理論が現れており,それが彼の生涯を通ずる指導理念となった。これは後発帝国主義国の自己主張ともいえる。1931年貴族院副議長,33年に同議長となったが,満州事変以降の政局混乱のなかで天皇に近く,各方面に顔がきき,清新さと知性をあわせもつ近衛は将来の首相と目された。軍人らがしきりと接近する一方,級友の後藤隆之助らは昭和研究会をつくって政策作りに着手した。

 二・二六事件直後に天皇から組閣を命じられて辞退したが,翌37年6月には広範な人気と期待をうけて第1次内閣をつくった。だが,7月に蘆溝橋事件がおこると高姿勢で対応して日中全面戦争に拡大させ,南京占領直後には〈国民政府を対手とせず〉声明を出して和平の道を閉ざした。しかし中国の抵抗は根強く,日本は長期戦の泥沼に引き込まれ,近衛内閣は1938年11月に東亜新秩序声明,12月に国交調整3原則の声明を出し,汪兆銘を抗戦から離脱させたところで,39年1月に総辞職し,近衛は枢密院議長となった。その秋に第2次世界大戦が始まり,1940年初夏にヒトラーの電撃戦が成功すると,これに呼応する新体制運動の中心人物として再び脚光を浴びた。7月に第2次内閣を組織し,武力南進方針の採用,日独伊三国同盟の締結,大政翼賛会の創立など大戦突入に備えたファシズム体制の樹立をはかった。しかしドイツのイギリス本土攻略は実現せず,41年春には日米交渉を開始した。6月の独ソ開戦ののち日米交渉に反対の松岡洋右外相をしりぞけて第3次内閣を組織したが,南部仏印進駐で交渉が行き詰まるなかで,中国からの撤兵問題をめぐって東条英機陸相と対立して10月に総辞職した。太平洋戦争の敗色こい45年2月には,〈国体護持の立場より憂うべきは敗戦よりもこれに伴う共産革命〉との上奏をおこない(近衛上奏文),終戦をはかった。敗戦直後には東久邇稔彦内閣の無任所大臣となり,ついで内大臣府御用掛として憲法改正の取調べにあたったが,戦犯容疑者の指名をうけ,出頭当日の未明に自殺した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「近衛文麿」の意味・わかりやすい解説

近衛文麿
このえふみまろ

[生]1891.10.12. 東京
[没]1945.12.16. 東京
政治家。公爵。内閣総理大臣(1937~39,1940~41)。五摂家の筆頭,近衛家の長男に生まれる。1916年貴族院議員となり,翌 1917年に京都帝国大学法科を卒業。1919年パリ講和会議西園寺公望の随員として参加。1931年貴族院副議長,1933年同議長となる。1937年第1次内閣を組閣。内閣成立 1ヵ月後に盧溝橋事件が勃発,不拡大方針の声明を出したが,杉山元陸軍大臣を抑えることができず,戦火が上海に広がり,日中戦争に拡大した。南京占領後,和平交渉を行なうが失敗,1938年「国民政府を相手にせず」の近衛声明を発表し和平の道を閉ざした。議会で国家総動員法案,電力国家管理法案が成立,内閣改造を行なって宇垣一成池田成彬を入閣させ内閣の強化をはかるが,1938年11月東亜新秩序声明,12月日華国交調整大綱を発表,汪兆銘が重慶を脱出したのを機に総辞職した。
新体制運動,新党づくりを目指すが,1940年第2次内閣を組織,武力南進方針(→南進論)の採用,日独伊三国同盟の締結,大政翼賛会の創立などファシズム体制の樹立をはかった。1941年日米交渉の開始後,松岡洋右外務大臣が対ソ宣戦,対米譲歩反対を唱えたため総辞職。同年 7月第3次内閣を組織。南部仏印進駐で交渉が行きづまり,中国からの撤兵問題で東条英機陸相と対立して,10月に総辞職した。1945年東条内閣の打倒と戦争の早期終結をはかるため上奏文を提出,敗戦直後の東久邇稔彦内閣に国務大臣として入閣,次いで内大臣府御用掛となり,憲法改正案の起草にあたった。しかし戦犯容疑者として連合国総司令部 GHQから出頭命令を受け,服毒自殺を遂げた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「近衛文麿」の解説

近衛文麿
このえふみまろ

1891.10.12~1945.12.16

昭和前期の政治家。東京都出身。公爵近衛篤麿の長男。京大卒。1916年(大正5)から貴族院議員。19年のパリ講和会議に随員として参加。31年(昭和6)貴族院副議長,33年同議長となり,首相候補と目されるようになった。37年(昭和12)6月,第1次近衛内閣を組織。翌月盧溝橋事件が勃発して始まった日中戦争は,和平交渉に失敗して泥沼化した。40年に第2次近衛内閣を組織して新体制運動を展開,「革新」政策を実施した。対外的には日独伊三国同盟を締結して「南進」政策をとった。41年7月,対米調整に反対する松岡洋右外相を放逐するため総辞職し第3次近衛内閣を組閣。しかし南部仏印進駐により日米交渉を破局に陥れ,外交と開戦の二者択一を迫られて10月に総辞職。敗戦後,戦犯指定をうけ,自決。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「近衛文麿」の解説

近衛文麿 このえ-ふみまろ

1891-1945 大正-昭和時代前期の政治家。
明治24年10月12日生まれ。近衛篤麿(あつまろ)の長男。近衛秀麿の兄。貴族院議長などをへて昭和12年第1次近衛内閣を組織。日中戦争に不拡大方針でのぞむが,戦局の拡大を容認。15年新体制運動を組織し,第2次内閣を組閣。日独伊三国同盟を締結,大政翼賛会を結成。16年日米交渉打開にむけて第3次内閣を組閣したが失敗し,総辞職。戦後,戦犯容疑で指名され昭和20年12月16日自殺。55歳。東京出身。京都帝大卒。
【格言など】所謂(いわゆる)戦争犯罪人として米国の法廷に於いて裁判を受ける事は堪え難い事である(辞世の言葉)

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旺文社日本史事典 三訂版 「近衛文麿」の解説

近衛文麿
このえふみまろ

1891〜1945
昭和期の政治家
篤麿 (あつまろ) の長男。東京の生まれ。五摂家の筆頭の家柄で,革新政治家として国民の期待・人気を集めた。貴族院議長から首相に就任し,組閣3回。この間日中戦争の処理,国内の軍部・政党の調停など期待されたが,新体制運動・大政翼賛会設立・日独伊三国同盟締結など,結局,ファシズム体制を促進し,日米交渉打開にも失敗した。戦中は第一線を退いたが,'45年早期終戦を上奏。第二次世界大戦後戦犯に指名され服毒自殺した。

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世界大百科事典(旧版)内の近衛文麿の言及

【終戦工作】より

…戦争終結をめざす民間人の動きは,1942年からあったが,いずれも政府を動かすにはいたらなかった。しかし日本の敗北が決定的となるにしたがい,近衛文麿らの宮中グループを中心とする和平工作活動が強まり,45年2月近衛は〈国体護持〉の立場から早期終戦を提案した近衛上奏文を天皇に提出した。5月のドイツ降伏を契機に,最高戦争指導会議構成員会議でソ連を仲介とする和平工作が検討され,東郷茂徳外相の委嘱をうけた広田弘毅元首相は,6月3日から駐日ソ連大使マリクY.A.Malik(1906‐80)との会談を開始した。…

【新体制運動】より

…1940年に第2次世界大戦の拡大に対処して総力戦体制を急激につくりだすため近衛文麿を中心に推進された政治運動で,日本型のファシズム体制を確立させた。 第1次近衛内閣の末期からすでに日中戦争の行詰りを打開するため強力政権をつくろうとする新党運動ないし国民再組織の動きがおこっていた。…

【大本営政府連絡会議】より

…日中戦争開始後に設置された国務と統帥の連絡調整機関。日中開戦後国務(政府)と統帥(陸軍参謀本部と海軍軍令部)の矛盾対立,政戦両略の不一致に悩んだ近衛文麿首相は,首相の大本営出席を要求したが軍部に拒否され,政府はやむなく1937年11月20日大本営設置と同時にこの会議を設置した。おもな構成員は首相,外相,蔵相,陸相,海相,参謀総長,軍令部総長などであり,必要に応じて他の閣僚や枢密院議長などが出席し,とくに重要国策決定のさいには天皇が出席する御前会議として開催された。…

【ベルサイユ体制】より

…英仏側が考えていたような賠償要求額は実行不可能であり,これが実行に移されれば,ドイツ経済を完全に破壊するばかりでなく,ヨーロッパ全体の経済を破壊してしまうであろう,と予言した。また,これとは別の視角からの批判として注目に値するのは,1918年11月に近衛文麿が雑誌《日本及日本人》に発表した論文《英米本位の平和主義を排す》である。この論文を近衛は,西園寺らに同行してパリ講和会議に出発する直前に執筆した。…

※「近衛文麿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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