日本大百科全書(ニッポニカ) 「広田弘毅内閣」の意味・わかりやすい解説
広田弘毅内閣
ひろたこうきないかく
(1936.3.9~1937.2.2 昭和11~12)
二・二六事件で岡田啓介(おかだけいすけ)内閣が総辞職した後を受けて成立した内閣。近衛文麿(このえふみまろ)が組閣を辞退したため、外務官僚出身の広田弘毅が組閣を命じられた。陸軍は露骨に組閣に干渉し、外相吉田茂、拓相下村宏(しもむらひろし)、内相川崎卓吉(たくきち)、法相小原直(おばらなおし)(留任)の閣僚リストに反対した。広田がこの干渉を受け入れたため、軍部に追随する内閣の性格が決まった。政友会から前田米蔵(まえだよねぞう)・島田俊雄が入閣し、民政党からは頼母木桂吉(たのもぎけいきち)・小川郷太郎(おがわごうたろう)が入閣した。内閣は「庶政一新」を唱えたが、その内実は軍事力の拡大を図ることであった。5月に軍部大臣現役武官制を復活させ、6月に帝国国防方針の改定による膨大な陸海軍拡張計画を認め、8月には陸軍の要求する大陸進出と海軍の要求する南方進出をともに承認する「国策の基準」を決定した。また「第二次北支処理要綱」「対支実行策」では華北分離政策推進を決定した。このため中国やアメリカ、イギリスとの対立を深め、綏遠事件(すいえんじけん)、西安事件(せいあんじけん)によって対中国政策は破綻(はたん)した。11月には日独防共協定を締結した。馬場鍈一(ばばえいいち)蔵相は軍部の要求をいれて軍備の大拡張を図る1937年度予算案を組み、大増税と赤字公債増発を計画した。このため、激しい軍需インフレの発生を恐れた宮廷グループ・財界と、議会制度改革(権限縮小)に反対する既成政党は不満を強めた。1937年1月衆議院での浜田国松の「腹切り問答」をきっかけとする軍部と政党の対立のなかで、広田首相は指導力を発揮できず、同月23日総辞職し、2月2日林銑十郎(はやしせんじゅうろう)内閣が成立した。
[吉見義明]