馬引沢村(読み)うまひきざわむら

日本歴史地名大系 「馬引沢村」の解説

馬引沢村
うまひきざわむら

[現在地名]世田谷区上馬かみうま一―五丁目・下馬しもうま一―六丁目・三軒茶屋さんげんぢやや一―二丁目・駒沢こまざわ一―三丁目・野沢のざわ一―三丁目・弦巻つるまき一―二丁目・太子堂たいしどう一丁目・世田谷一丁目・池尻いけじり一丁目

三宿みしゆく村・太子堂村の南にある。荏原えばら郡に属する。東は上目黒かみめぐろ村・碑文谷ひもんや(現目黒区)、西は弦巻村・世田谷村。矢倉沢やぐらさわ往還が当村と北に位置する太子堂村との境で分岐し、一道(大山道新道、二子道)は村内を南西方向に進んで世田谷村枝郷の新町しんまち村へ入り、一道(大山道旧道、大蔵道)は北境を通り世田谷村へ抜ける。品川用水が西寄りの上馬引沢村内を流れて南の野沢村へ入り、その後東寄りの下馬引沢村南部を流れ、碑文谷村へと入った。村名の由来について「風土記稿」は土地の言伝えとして、文治五年(一一八九)源頼朝が奥州合戦でこの地を通った際、頼朝の馬が沢に落ちて死に、その馬を埋めたことが馬引沢の地名となったと記している。矢倉沢往還の分岐点付近の俗称三軒茶屋は、しがらき(石橋楼)・田中屋・角屋という三軒の茶屋があったことに由来する。天正一九年(一五九一)荏原郡馬引沢村御縄打水帳(新堀家文書)がある。


馬引沢村
うまひきざわむら

[現在地名]日高市馬引沢

田木たぎ村の西にあり、西は芦苅場あしかりば村・下川崎しもかわさき(現飯能市)中山なかやま(現同上)から川越への道がほぼ東西に通る。村名は鎮守つるぎ神社の前を馬に乗って通りかかると必ず落馬するとの言伝えがあり、みな下馬して馬を引いて通り過ぎることに由来するという(風土記稿)。小田原衆所領役帳には他国衆三田弾正少弼の所領として高麗こま郡の馬引沢がみえる。近世には高麗加治かじ領に属した(風土記稿)。寛永二年(一六二五)九月土屋忠次郎(忠清)は「駒引沢村」一三石余を宛行われ、同年一〇月には酒依長十郎(吉政)が馬引沢村八五石を宛行われた(記録御用所本古文書)。田園簿では田七一石余・畑三一石余、幕府領(五石余)・旗本酒依領(八五石)・同土屋領(一二石)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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