駒林村(読み)こまばやしむら

日本歴史地名大系 「駒林村」の解説

駒林村
こまばやしむら

[現在地名]港北区日吉本ひよしほん

東は矢上やがみ村、西は都筑つづき高田たかた村、南は北綱島きたつなしま村、北はこまはし村に接する。中央を南北に鎌倉道が通る。早淵はやぶち川の分水高田堰と三ヵ所の溜井がある。

「廻国雑記」によると、文明一八年(一四八六)道興は鎌倉への途次「駒林といへる所にいたりて宿をかり侍るに、あさましげなる賤のふせやに落葉所をせき侍るを、ちとはきなどし侍りける間、たゝずみて思ひつゞけける」として「つなかれぬ月日しられて冬きぬと又はをかふる駒はやし哉」と詠んでいる。小田原衆所領役帳に江間藤左衛門「拾貫文 小机筋駒林内ニ而被下」、市野弥次郎「四拾三貫七百廿文 小机駒林」とある。永禄八年(一五六五)五月二五日の北条家朱印状写(県史三)によれば「駒林郷」の小代官・百姓中に宛て正木棟別二貫六七八文のうち三分の二を麦で玉縄たまなわ(現鎌倉市)の蔵に、三分の一を精銭で小田原城に六月晦日までに皆済し、無沙汰の場合は「則家内牛馬を可取」と命じた。


駒林村
こまはやしむら

[現在地名]上福岡市駒林・丸山まるやま

福岡村の南にあり、村域は東西に細長い。南は勝瀬かつせ(現富士見市)。村名は昔林の中で駒が斃れたことに由来するという(風土記稿)。田園簿では田九〇石余・畑一〇九石余、旗本小栗領。元禄一一年(一六九八)小栗氏は封地を上総国へ移され(寛政重修諸家譜)、その後川越藩領となり、幕末に至る(慶応四年川越藩村高帳など)。元禄一一年の明細帳(粕谷家文書)によると家数五五・人数二八八、馬二六。産物大麦・小麦・蕎麦・芋・粟・稗・もろこし・蕪・大根・茶葉・桑。


駒林村
こまばやしむら

[現在地名]京ヶ瀬村駒林

駒林川沿いに立地し、西は五郎巻ごろうまき新田。慶長三年(一五九八)頃の新発田藩の御領内高付帳(新発田市史資料)に「三百七拾四石三斗壱升 西駒林村」とある。同一〇年の給知方村々高目録(同資料)には駒林村とあり、毛付二三八石五斗五升四合・荒三三八石二斗一升七合と記される。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)によれば五石七斗五升の炉役が三四軒に課されている。正保国絵図には四一五石余と記されるが、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では高三五〇石二斗余に減ずる。同七年と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)では上下に分れ、上駒林村は家数五九・人数三七七、下駒林村は家数三八・人数二三八。


駒林村
こまばやしむら

[現在地名]上越市駒林

長岡なおか村の南にある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外四方分駒林村 上」とみえ、本納一五四石八斗八升八合・縄高六〇六石六斗一升八合・家二九軒・一〇四人。正保国絵図によると高五一八石余。天和三年郷帳では高六六一石四斗余、うち野高二石五斗二升五合、そのほかに新田高九一石四斗余。元禄郷帳には駒林村と駒林村枝郷駒林新田(九一石四斗余)が別々に記載されており、駒林新田が一村として独立している。天保郷帳には「古者駒林村駒林新田二ケ村」と注記され、駒林村として高七六六石八斗余が記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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