高下村
たかおりむら
[現在地名]増穂町高下
小室村の南に位置し、小柳川上流の道利川流域山腹の上高下・下高下・仙洞田・狩宿の四つの山がちの集落からなる。養蚕および穂積柚子の産地として知られている。当地諏訪神社蔵の鰐口(県指定文化財)の銘に「杣保黒沢観音堂鰐口 貞和五年十二月廿二日□正河」とある。銘文にみられる「黒沢」は諏訪神社が鎮座する字黒沢をさすものと思われ、ここにかつて観音堂が営まれていた。杣保の信仰の中心として祀られていたものであろう。杣保は現在の仙洞田周辺がその故地と考えられる。
慶長七年(一六〇二)の検地帳(県立図書館蔵)によると屋敷九六五坪・屋敷数二五、ほかに御蔵屋敷一・寺二(妙楽寺・妙諸寺)。七斗の井料が書上げられている。田方四町一反余(うち下田二町一反余)に対し畑方は一八町一反余と畑方の比重が大きく、なかでも下畑・下々畑・山畑の合計は一三町六反余と畑方全体の七割五分を占めており、厳しい耕地の状況であった。
高下村
こうげむら
南は千本村、北は北田野浦村。集落は段丘崖下の海岸低地に形成され、寺の沢を挟んで北田野浦の集落と接続して一村の観を呈する。入崎の陰にあって船の澗掛りに適する。背後には近世前半に新田開発が進んだ広い段丘がある。伝弘長三年(一二六三)の高下村立始由緒書覚(高千村史)によると、承久元年(一二一九)に高野下次郎兵衛が真更川村(現両津市)から移住し諏訪大明神を勧請。翌年甲州巨摩郡(現山梨県)生れの大平九郎左衛門兄弟が入り、貞応二年(一二二三)に弟の勘解由左衛門が分家独立。寛元三年(一二四五)新穂村(現新穂村)から飯野三郎右衛門、建長二年(一二五〇)吉井(現金井町)から平越平左衛門が移住。
高下村
こうげむら
[現在地名]山崎町高下
揖保川の支流菅野川の中流域に位置し、東は高下市場村、南東は木谷村。中世には柏野庄に含まれていたとみられる。「峯相記」に載る顕宗・仁賢両天皇の流離譚について、「当国宍粟郡ニ逃隠給ヘリ、御所ハ当時ノコウ野市庭」と記される。市庭(市場)の記載および位置関係からコウ野をコウケと読ませたと思われる。江戸時代には初めは高下村一村であったが、まず木谷村が六一石余の持高で分村し、寛永一九年(一六四二)市場村が分村したという(「諸願書控帳」庄家文書)。
高下村
こうげむら
[現在地名]柵原町高下
吉野川と吉井川との合流点に位置し、対岸北は飯岡村。久米南条・勝南・英田・和気・赤坂五郡の接点の村である。もと倉敷川(吉野川)の北岸にあり、王子村・飯岡村と地続きであったが、元和三年(一六一七)の大洪水で倉敷川の南岸になったという。また古くは飯岡村の分郷であった(以上「東作誌」)。正保郷帳に村名がみえ、畑一二五石余とあるが、田方の間違いか。
高下村
こうげむら
[現在地名]八代市高下東町
球磨川本流が前川と分岐する一帯の本流左岸の村。東は豊原村、南は本野村に接する。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳では田方六〇二石六斗余・畠方一六三石九斗余。高田手永に属する。「国誌」に「里俗東高下村ト云」とあり、森綱・末広・中光寺・近宗などの小村を記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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