飯岡村(読み)いのおかむら

日本歴史地名大系 「飯岡村」の解説

飯岡村
いのおかむら

[現在地名]田辺町大字飯岡

北を普賢寺ふげんじ川が流れ、草内くさじ村との境となっている。中央に孤立してそびえる飯岡山(約六七メートル)から南山城一帯を眺望できる。集落は頂上より少し低い東北部の平地に展開する。古くから木津きづ川水運に関係が深く、山麓に河港があったらしい。「山城名勝志」に「石坂土人云在飯岡内」とある「石坂」は「山槐記」仁平二年(一一五二)九月一四日条に「申刻木津乗船、宿石坂之辺」、翌一五日条に「辰刻出石坂、未刻付於切付島、各下船眺望、戌刻付草津、及夜半帰三条亭畢」とみえる。石坂いしざかは港から山へ上る石段あるいは石畳からきた地名か。なおここと対岸井手村とを結ぶ飯岡の渡があり、渡しから山上を通って田辺村に達する道があった。

飯岡は古くは咋岡くいおかとよんだ所で、「続日本後紀」天長一〇年(八三三)一〇月九日条に「区岳」とみえ、また「延喜式」神名帳にも咋岡神社の名がみえる。「万葉集」巻九に「泉河辺作歌」として

<資料は省略されています>

とある。この「馬咋山」は「まくひやま」として「五代集歌枕」「八雲御抄」などに載り、歌枕となっているが、「春草を馬」までが「くひ」にかかる序詞で、咋山であり、飯岡に比定される。

飯岡村
いいおかむら

[現在地名]神林村飯岡

村央をひやつ川が西流し、北は有明ありあけ村、南は山田やまだ村、東は桃川ももがわ村、西は牧目まきのめ村に接する。正和五年(一三一六)四月一九日の色部長綱譲状案(色部氏文書)によれば、色部長綱は次男又童(高長)に色部条内の田在家屋敷の一部を譲り、公事等は惣領支配に任せるようにとした。この時の所領に当地が含まれていたらしく、高長はのち飯岡氏を称するようになる。南北朝内乱期には高長は北朝方の佐々木景綱に属して蒲原かんばら郡・古志こし郡各地を転戦、惣領の支配を離れ独立した行動をとっている。この間高長の家子として飯岡長家・飯岡長時の名がみえる(建武五年三月日・同四年五月日「色部高長軍忠状案」同文書)。文明六年(一四七四)には飯岡五郎右衛門と惣領色部朝長との間に悟了庵分の知行などをめぐって争いが起きており、この時には正和五年の色部長綱の四人の子への譲状の真偽も問題となっている(同年八月一八日「色部朝長申状案」米沢市立図書館所蔵色部氏文書など)

飯岡村
ゆうかむら

[現在地名]柵原町飯岡

きちはら村の南東、吉井川と吉野よしの川との合流域に立地し、倉敷くらしき往来が通る。船番所が置かれ、舟運の一拠点であった。吉野川対岸は高下こうげ村。「和名抄」記載の勝田かつた飯岡いおか郷の遺称地で、中世にも同名郷がみられる。文治六年(一一九〇)四月の主殿寮年預伴守方注進状案(壬生家文書)に「美作、年別油四石五斗一升、大粮米百七石、本保者、字飯岡郷也」とある。渋谷氏の所領河会かわえ(現英田郡英田町)の北に位置した(文永二年八月三日「渋谷明重譲状」入来院文書)。元弘の乱に際し、飯岡郷一分地頭仏寿丸は上洛し、足利尊氏方として活躍した(元弘三年五月一五日「仏寿丸着到状」本間文書)。弘治三年(一五五七)仮託の美作国献上記(美作古簡集)では飯岡郷として和炭五駄を片山是次が献じている。

飯岡村
いいおかむら

[現在地名]飯岡町飯岡

現町域の南東部に位置し、南は太平洋に臨む。寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳に飯岡永福えいふく寺とみえ、また当地の正善しようぜん院と考えられる「飯森村正善寺」が記載される。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二六八石余で旗本長井・片桐二氏の相給。のち組与力給知一四〇石余と長井氏の相給となる(旧高旧領取調帳)。文政一一年(一八二八)の組合村書上帳写(伊藤家文書)では家数二二四・人数九六八、ほか寺五。天保一四年(一八四三)の商人書上帳(村明細帳の研究)では高二六八石余のうち浦浜高六石余、旗本長井領および与力二氏の相給、農業のみを生業とする者は家数七九・人数四三一、漁業ならびに漁間商い渡世は家数一二五(うち漁業のみ八四)・人数六七四で、内訳は枡売酒八、餅菓子四、蕎麦・農具荒物・搗米船具各三、水油魚油・酒造・髪結・湯屋・商人宿各二のほか質屋・薬種・野菜穀物類・鍋釜・煙草などとなっている。

飯岡村
いいおかむら

[現在地名]山田町中央町ちゆうおうちよう後楽町こうらくちよう川向町かわむかいちよう八幡町はちまんちよう境田町さかいだちよう・飯岡・長崎ながさき一―四丁目

山田湾の西岸ほぼ中央にあり、西から北にかけて上山田村下山田村に接する。浜街道が飯岡の集落を通る。この飯岡の集落のうち現在の中央町の辺りに山田町があった。応永二六年(一四一九)八月六日の南部政光下知状(遠野南部文書)によれば、政光(法名八戸聖守)は「へいのいいおか」を修理亮光経に安堵しており、当時八戸南部氏の所領であったことが知られる。正保国絵図に村名がみえ、高一五二石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高二九六石余、七ヵ年平均の免三ツ三厘四毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方二〇八石余・畑方二九石余。

飯岡村
いのおかむら

[現在地名]成田市飯岡

幡谷はたや村・大生おおう村の西に位置し、南は荒海あらみ川を挟み芦田あしだ村。天正一九年(一五九一)一一月日の徳川家康朱印状(永福寺文書)に飯岡郷とみえる。文禄三年(一五九四)に検地が行われた(印旛郡誌)。領主の変遷は成毛なるげ村と同じ。元禄郷帳では高二四三石余、うち五石は永福えいふく寺領。享保八年(一七二三)の淀藩領郷村帳によると、小物成として夫役永六九四文・栗代永二二文・林下刈銭鐚三〇〇文・山銭鐚一貫三七二文があった。

飯岡村
いいおかむら

[現在地名]笠間市飯合いいごう

稲田いなだ川左岸にあり、東は来栖くるす村、北は甲山こうのやま村。中世は笠間氏の支配下にあり、字打出うちでに土豪の館跡がある。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。古くは箱田はこだ村の枝郷であったが、江戸初期に分村と伝え(「茨城郡山内南郷村差出帳」石井家文書)、「郡官日省録」(武藤家文書)によると慶安二年(一六四九)の検地で村高一三七・七二三石となり、万治三年(一六六〇)・延宝二年(一六七四)の新開検地で合せて八石余を打出す。

茨城郡山内南郷村差出帳によれば、村には溜池三、橋八、堰一があり、溜池は当村のほか古町ふるまち石井いしい両村の用水となっている。

飯岡村
いいおかむら

[現在地名]岩瀬町西飯岡にしいいおか

いずみ川右岸、岩瀬盆地の北西部にあり、北は大泉おおいずみ村。村の北西にはしろ山がある。戦国期は宇都宮氏の配下の小宅氏が城を築いて支配し、天文年間(一五三二―五五)写の「日光三所本地物語」に「西那珂郡坂戸郷飯岡村」とある。江戸初期に笠間藩領(寛文朱印留)、のち旗本井上氏領となり、隣村の堤上つつみのうえ村など茨城郡の旗本領の割元もしていた。元治元年(一八六四)の戸数四九・人数二八四(「飯岡村御用留帳」鈴木家文書)

慶応年間(一八六五―六八)に当村の満願まんがん(真言宗豊山派、本尊大日如来)の所領の一部を名主が替地にしたことに端を発する村方騒動が起きている。

飯岡村
いいおかむら

[現在地名]塩谷町飯岡

芦場よしば新田の南、石尊せきそん(四八〇・七メートル)東麓に位置し、東部をまつ川が南流する。中世には飯岡郷が一帯に成立する。天文年間(一五三二―五五)の八月三日の足利晴氏書状(小山文書)で、今般の戦に勝利したら小山下野守に与えると約束をした三郷のうちに同郷があった。今宮祭祀録(西導寺蔵)によると同郷は今宮いまみや神社(現氏家町)に社家役として拝殿一間を勤仕、また応永一七年(一四一〇)より天正一三年(一五八五)にかけ同郷の舟生氏や飯岡氏が祭礼頭役を勤めている。同年の薄葉うすばヶ原(現大田原市)の合戦で、塩谷義綱に従った者のなかに飯岡八郎知貞がみえる(宇都宮興廃記)

飯岡村
いいおかむら

[現在地名]羽茂町飯岡

羽茂平野の谷口部に立地。羽茂川下流は羽茂本郷はもちほんごう村に続く。上流は大崎おおさき村、西は上山田かみやまだ村・羽茂本郷村、東は山地。羽茂川を用水とする村々のうち、樋口に位置し、もとは羽茂本郷村と一村をなしていた。羽茂川左岸に広い面積の垣の内かきのうちの地字があり、ここを中心に氾濫原の開発が行われたと思われる。元禄七年(一六九四)の検地時における屋敷地は地字やなば・酒川・守屋敷・川原・川端・かみ・西・樋口・田中・なが田・関などにあり、いずれも川沿いに立地する。

飯岡村
いいおかむら

[現在地名]小川町飯前いいさき

ともえ川の南側に位置し、東北は上合かみあい村。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「飯岡村」とみえる。「新編常陸国誌」に「天保中前原村ト合テ飯前村ト称ス」とある。「水府志料」は戸数およそ二二とし、「此村原野之間に有り。(中略)屋敷跡 八田氏の族に真家中務と云者居る。其子真家奴多と称す。上合村小橋大和と同じく芹沢土佐守に従ひ、佐竹勢と芹沢原にて相戦ひ、大和討死し、奴多は引退しが、大和討死せりと聞ひて、前原村にて自殺す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の飯岡村の言及

【西条[市]】より

…愛媛県東部,燧(ひうち)灘沿岸にある市。1941年西条,氷見の2町と飯岡,神戸(かんべ),橘の3村が合体,市制。人口5万7110(1995)。1636年(寛永13)より一柳(ひとつやなぎ)氏,70年(寛文10)より松平氏各3万石の所領で,城下町として発達した。陣屋跡には県立西条高校がある。南部には西日本の最高峰石鎚山(1982m)をはじめ高峻な山々が連なり,そこを源流とする加茂川が市域の中央を貫流し,北部には沖積平野が東西に広がっている。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」