高天神城跡(読み)たかてんじんじようあと

日本歴史地名大系 「高天神城跡」の解説

高天神城跡
たかてんじんじようあと

[現在地名]大東町上土方嶺向

鶴翁かくおう(高天神山、一三二メートル)に築かれた要衝の城。応永二三年(一四一六)今川氏築城という説(武徳編年集成)があるが、一六世紀初頭、今川氏親の遠江進出に伴って築かれたとするのが妥当であろう。その頃と推定される八月二一日の田原憲光書状写(大福寺文書)の奥に「自田原弾正(憲光)高天神返状安模置」とある。永禄一一年(一五六八)一二月、今川氏の衰退とともに高天神城主小笠原与八郎長忠は今川方から徳川家康配下に移る(「家忠日記増補追加」など)。元亀二年(一五七一)三月頃、武田軍が当城に押寄せたが小笠原貞頼らが撃退(同月二九日「徳川家康感状写」唐津小笠原文書、「甲陽軍鑑」「浜松御在城記」など)。天正二年(一五七四)五月一二日、武田勝頼軍は高天神城の諸口に詰寄り、六月一〇日には塔尾とうのお(堂の尾)曲輪を取り(同月一一日「武田勝頼書状写」武州文書)、二一日以前に占領している(同月二一日「織田信忠書状」真田宝物館所蔵文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「高天神城跡」の解説

たかてんじんじょうあと【高天神城跡】


静岡県掛川市上土方・下土方にある中世の城跡。東海道掛川の南11kmにある標高130mの鶴翁(かくおう)山に築かれている。山自体が急斜面で、効果的に郭(くるわ)が配置されており、石垣はないものの「難攻不落の名城」と呼ばれた城で、現在も東峰の本丸など主郭跡や空堀などを見ることができる。そのため、諏訪原(すわはら)城跡と並んで、この地域の戦国期を理解するうえで欠くことのできない遺跡であり、中世の山城遺構としても優れている。城は1416年(応永23)の上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱に際し、鎌倉方を支援した遠江(とおとおみ)の領主、今川氏が築いたとされるが、永禄年間(1558~70年)には徳川氏に帰属し、西上を画策する武田方と対峙した。1574年(天正2)には武田勝頼が攻略して開城させ、以後、徳川方と数次にわたる戦いが続いたが、1581年(天正9)に織田信長の支援を得た徳川家康の包囲攻撃を受けて落城した。1975年(昭和50)に国の史跡に指定されたが、南に延びる尾根を分断する大規模な堀切りの部分などが、2007年(平成9)に追加指定された。JR東海道新幹線ほか掛川駅からしずてつジャストラインバス「土方」下車、徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の高天神城跡の言及

【大東[町]】より

…海岸部を走る国道150号線の沿道には化学工場をはじめ多くの工場が立地し,地場産業の鉄工業や繊維工業と共に町の経済を支えている。上土方嶺向(かみひじかたみねむかい)に戦国時代,徳川氏と武田氏の争奪の舞台となった高天神城跡(史)がある。【萩原 毅】。…

※「高天神城跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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