高安村
こうやすむら
高畑村・小郡山村の南、文珠山(五二二メートル)の北懐に立地。天文三年(一五三四)四月一〇日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、「浜田三郎左衛門尉所より売地、屋代之庄一迫之郷内、かうやす北の在家之内、田中屋敷之北五百苅」などが浜田常陸守に安堵されている。田中屋敷の所在地は当地の小字田中であろう。屋代庄一迫郷は高安から高畠(旧高畑村)の東部一帯に比定されている。同二二年の晴宗公采地下賜録では、「や代かうやすの内、田中在け」が浜田式部に与えられた。
近世初期の邑鑑に村名がみえ、高三二八石余、免三ツ七分、家数二一(うち肝煎一)・人数八〇。蒲生氏高目録帳では村柄は上。
高安村
たかやすむら
[現在地名]斑鳩町大字高安
富雄川左岸の集落。天理市櫟本町から斑鳩町大字法隆寺の並松に至る業平街道に沿って立地する。旧名は富小川村であったという(大和名所図会)。初めは現集落の西南方、大字法隆寺の小字上宮の東方、川を隔てた所にあった。現在、中ノ垣内の地名が遺存する。富雄川の出水により現在地に移転した。村域内には高安寺(現安堵村大字西安堵)の名跡を継ぐ勝林寺(融通念仏宗)がある。
慶長郷帳にみる村高四五一・〇六石。慶長六年(一六〇一)竜田藩(片桐且元)領。「譜牒余録」にも「庁中漫録」所収の大和国高付帳にも「高安寺」とみえる。
高安村
たけーしむら
南は平良村、西は豊見城村。東隣の饒波村と併称してヌファ・タケーシという。絵図郷村帳・「琉球国由来記」に豊見城間切高安村とみえるが、琉球国高究帳には記載がない。間切集成図では道筋は饒波村に同じで、大里間切に源を発した高安川原(現饒波川)が当村の南から西を流れ、石火矢橋を経て那覇川に至る。饒波川の下流集落の南西側には潭口(谷口)とよばれる船着場がある。当村を領する地頭職には光緒元年(一八七五)向氏高安親方朝崇がいる(「中山世譜」附巻)。明治六年(一八七三)の高安親方の家禄四〇石・物成一三石余、当村からの作得は一〇石余(琉球藩雑記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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