高安寺(読み)こうあんじ

日本歴史地名大系 「高安寺」の解説

高安寺
こうあんじ

[現在地名]府中市片町二丁目

かた町南部、旧甲州街道南側にある。等持とうじ院と号し、曹洞宗本尊釈迦如来。寺伝によると、貞和四年(一三四八)足利尊氏が市川山見性けんしよう寺という寺を臨済宗寺院に改め、竜門山高安寺として大徹心悟を開山に招いたという(風土記稿)。武蔵国の安国寺との伝承もある。また「細川寺」と称したことから(鎌倉大草紙)創建に細川氏が関与していたかもしれない。鎌倉公方足利氏と関係の深い寺として、永徳元年(一三八一)小山義政の乱には足利氏満、応永六年(一三九九)大内義弘の泉州さかい(現大阪府堺市)での反乱(応永の乱)には足利満兼、同三〇年の常陸小栗おぐり(現茨城県協和町)攻めと永享一〇年(一四三八)の上杉憲実攻めの際には足利持氏、享徳四年(一四五五)の享徳の乱では足利成氏がそれぞれ鎌倉から出陣して高安寺を陣所とした。

高安寺
こうあんじ

[現在地名]鶴岡市新海町

国道三四五号北側にある。大竜山と号し、時宗。本尊は延命地蔵尊。近世にはしん町の北に位置していた。創建の時代は不詳だが、天文年間(一五三二―五五)武藤義氏の伯母天院尼の開基と伝え、初め大宝寺だいほうじ城下にある禅宗の尼寺であった。六代目住持円用院尼は義氏の室で、その後当寺は大山馬おおやまうま(加茂ともされる)へ移った。七代目住持梅顔(厳)尼は義氏の妹という。慶長年間(一五九六―一六一五)八代目住持惟仏尼のとき長泉ちようせん寺の力添えで鶴ヶ岡城下に戻り、時宗に改めたとされる。慶長一七年最上義光から灯明供物料として一二六石余寄進の黒印を与えられた(「最上義光寄進状」長泉寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android