日本大百科全書(ニッポニカ) 「高松次郎」の意味・わかりやすい解説
高松次郎
たかまつじろう
(1936―1998)
美術家。東京生まれ。本名新八郎。1958年(昭和33)に東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻を卒業。在学中は小磯良平に学んだ。卒業後、東映動画、シルバー編機製造に勤務しながら読売アンデパンダン展で作品を発表。62年に山手線内の車両内やホームで中西夏之(なつゆき)らとハプニングを行い、63年に中西、赤瀬川原平と美術集団「ハイレッド・センター」を結成し、集団イベントを繰り返す。64年以降、国内の現代美術展やパリ・ビエンナーレ(1967)、ベネチア・ビエンナーレ(1968)などで受賞が相次ぎ、その名が内外に知れるようになった。
高松は、自らの美術についての思考を継続的に深めていくため、常にいくつかのシリーズ作品を並行して制作・発表していた。発表順には、ドローイング「点」(1961~64)、造形作品「紐」(1962)、絵画「影」(1964)、立体作品「遠近法」(1966~71)、絵画「波」(1968~75)、造形作品「弛(ゆる)み」(1968~72)、立体作品「石と数字」(1968~70)、木や石の一部を加工した「単体」(1969~72)、立体作品「複合体」(1972)、絵画「平面上の空間」(1973)などであるが、いくつものアイディアから生まれた作品を、シリーズ名によって整理した面もある。これらのタイトルからうかがえるように、高松は物の存在をとらえるのに文学的な形容や名辞にとらわれず、物理学的な視点を導入し、物と人間の存在のあいだにある「美」の拡大を目指した。たとえば「紐」は二次元に長く無限に伸び、都市・街路を覆い、立体物を包むこともでき、またそれを丸めれば三次元のオブジェにもなる。「影」は光と物の存在がなければ成立せず、しかも二次元の平面にすぎない。「遠近法」は、奥行きのある三次元の風景を二次元に変換する描法である。これらの物理的な発想の根源には、画布とイリュージョンの二次元で世界観を表明する運命から逃れられない「絵画」の絶対的条件がある。高松は二次元である絵画に対し、一次元の「点」、三次元の事物、さらに「時間」を示唆する要素を加えて四次元すら暗示させる作品を一貫して追求した。視覚機能をもった人間の存在と事物の実在性を突き合わせ、そこで各次元に縛られないイメージの解放を目指した。このような行為は日常的な規範を撹袢するものであった。たとえば「単体」シリーズは、直方体の無垢の石の上部表面だけを削り、破砕した破片を乗せたもの。ここでは削り取られた破片の粗(あら)削りな表情も含め、物理的実在性と眼と脳による認識とのあいだにずれが生じる。高松はそのずれを美的表現として提示し、事物と人間の関係を問いただした。
こういった理知的な試みは、1960年代前衛美術における物質=事物をめぐる人間中心の関わりを切断し、ものと言葉の関係を構造として考えていく70年代美術の地平を開いた。生前の96年(平成8)に「高松次郎の現在」展(三鷹市美術ギャラリー、東京ほか)、没後の99年に「高松次郎――『影』の絵画とドローイング」展(国立国際美術館)、2000年に「高松次郎――1970年代の立体を中心に」展(千葉市美術館)などの回顧展が開かれた。
[高島直之]