高見城跡
たかみじようあと
村の中央の中割にあり、高見町とも称し、道に沿って全長一七〇メートル、下町・中町・上町と五五メートルずつに町割されて、往時の遺構がみられる。上町の東に空堀があり、西城と称する郭があり、更に堀を隔てて外城と称する郭が残っている。外城の東方に曹洞宗広善山蔵沢寺があり、北方には健御名方命を祭神とする香花社がある。
高見町は城下町で追手・搦手・的場・堀・堤・坪ノ内・茶屋坂・野竹・市橋等古地名が残り、的場からは鉄扇・古銭・陶器等も出土している。
高見城跡
たかみじようあと
高見城山に位置する城跡。標高四八五・二メートル、比高三三〇メートルの山塊周辺に曲輪がある。佐野城ともよばれた。すでに南北朝時代に築かれたようで、文和三年(一三五四)一二月、足利直冬方についた山名時氏が上洛する際「佐野ノ城」(高見城)の麓を通ったが、城に詰めていた丹波国守護仁木頼章は、これを攻撃せず傍観したという(「太平記」巻三二)。戦国末期にも城は使用され、天正七年(一五七九)八月には明智光秀に対する抵抗の拠点になった。光秀は「高見」に対して「詰陣」をとっているので、まもなく「落居」するだろうと報じている(八月二四日「明智光秀書状」滋賀県立安土城考古博物館所蔵文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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