鳥取村(読み)とつとりむら

日本歴史地名大系 「鳥取村」の解説

鳥取村
とつとりむら

[現在地名]釧路鳥取大通とつとりおおどおり一―九丁目・鳥取北とつとりきた三―一〇丁目・鳥取南とつとりみなみ二―八丁目・新富士町しんふじちよう一―六丁目・星が浦大通ほしがうらおおどおり一―五丁目・星が浦北ほしがうらきた一―五丁目・星が浦南ほしがうらみなみ一―六丁目・鶴野つるの鶴野東つるのひがし一―五丁目・中鶴野なかつるの昭和町しようわちよう一―四丁目・昭和北しようわきた一―三丁目・昭和中央しようわちゆうおう一―六丁目・昭和南しようわみなみ三―六丁目・昭和しようわ北園きたぞの北園きたぞの一丁目・大楽毛おたのしけ大楽毛おたのしけ一―五丁目・大楽毛北おたのしけきた一―二丁目・大楽毛西おたのしけにし一―二丁目・大楽毛南おたのしけみなみ一―五丁目・新野にいの音羽おとわ鶴丘つるおか駒牧こままき青山あおやま桜田さくらだ山花やまはな美濃みのう北斗ほくと安原やすはら

明治一七年(一八八四)から昭和一八年(一九四三)まで存続した村。釧路村の西にあり、南部は海に臨む。「春日紀行」にみえる「歌乃経」は村内の大楽毛で、「北海道巡廻日記」に「ヲダノスケト名クル原野ノ小休所」とあるほか(明治六年一〇月三一日条)、オタノシケとも記される(同年一一月一四日条)。明治一七年七月釧路村を割いて鳥取村が成立(市町村沿革台帳)


鳥取村
とつとりむら

[現在地名]国見町鳥取

南北に細長く、上泉じようせん(旧行歩川)は北部山地では西の小坂こさか村境を流れ、中部扇状地域で流れを東に変え、東西に狭い南部平地では東の内谷うちや村境を流れる。「吾妻鏡」文治五年(一一八九)八月一〇日条によると、奥州合戦において源頼朝軍は、「鳥取越」をして奥州平泉の藤原軍を攻略したという。鹿股助氏は、伊達尚宗から鳥取村を与えられた(「鹿股家譜」伊達世臣家譜)。天文二二年(一五五三)伊達晴宗は大和田伊勢守に鳥取の在家一軒を与えた(晴宗公采地下賜録)。元亀二年(一五七一)一二月一七日、伊達輝宗は前年の中野宗時の叛乱の時に戦功のあった鹿股壱岐に、当地などのうちから計一二貫六〇〇刈を与えている(性山公治家記録)

近世初頭は内谷村のうちであったが、寛文四年(一六六四)以前に分村独立したものとみられる。


鳥取村
とつとりむら

[現在地名]弥栄町字鳥取

尾坂おさか山山系の南麓、木橋きばし村の北に網野あみの宮津街道を挟んで隣接する。竹野川の支流鳥取川沿いに宮津街道が網野村(現網野町)へ通じ、これに沿って細長い谷間の水田が延びて集落東方の竹野川沿いの田とつながる。

古代鳥取ととり(和名抄)の地とされ、中世鳥取とつとり庄として推移する。伝承によれば、垂仁天皇の時代に湯河板挙命が但馬国から網野の水江みずのえに来、白鳥を取ろうとして水江に網を張った。その、鳥を捕らえた所が鳥取村であったという(竹野郡誌)。中世末の丹後国御檀家帳には次のように記される。

<資料は省略されています>

慶長検地郷村帳に高六五四・六五石「鳥取村」とあり、延宝九年(一六八一)の延高によって七五八石余となる(天和元年宮津領村高帳)


鳥取村
とつとりむら

[現在地名]大島町鳥取

新開発しんかいほつ村の北、神楽かぐら川右岸に位置し、同川の舟運によって放生津ほうじようづ(現新湊市)と結ばれる。文亀三年(一五〇三)二月一二日の大館持房行状(三浦周行所蔵文書)にその所領として越中の鳥取の名がみえ、当地のことと思われる。正保郷帳に村名がみえ、高三二〇石余、田方二〇町八反余・畑方五反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二七三石、免四ツ三歩(三箇国高物成帳)


鳥取村
とつとりむら

[現在地名]前橋市鳥取町

南は端気はけ村、東は五代ごだい村、北は小坂子こざかし村、北西は勝沢かつざわ村、西は小神明こじんめい村に接する。山内上杉氏(顕定)扇谷上杉氏(定昌)の対立のなか鳥取の地は戦場となり、長享元年(一四八七)一二月二七日の上杉定昌書状(赤堀文書)で、赤堀上野介は「鳥取在陣衆」に落度なきよう命じている。しかし翌二年と思われる二月九日の上杉顕定書状(同文書)では、赤堀上野介は山内上杉氏にくみし、同月七日に「長尾右衛門尉張陣地へ、取鳥(鳥取)之諸軍差懸候処」の時に一戦に及ばず退散したのは赤堀の働きの故であると賞賛されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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