内谷村(読み)うちやむら

日本歴史地名大系 「内谷村」の解説

内谷村
うちやむら

[現在地名]浦和市内谷一―七丁目・曲本まがもと三―五丁目、戸田市内谷

曲本村の南に位置し、南は美女木びじよぎ(現戸田市)。枝郷として大野おおの(現同上)がある。西を荒川が流れ、対岸新座にいくら下内間木しもうちまぎ(現朝霞市)。沖積平野部に立地し、沖積作用による微高地がある。中世には鎌倉鶴岡八幡宮佐々目ささめ郷に含まれたと考えられる。慶長一七年(一六一二)八月の篠目之内沼影村御検地水帳写(細淵家文書)に「うちや弥四郎」「うちや善右衛門」など内谷村居住の者の名がみえる。江戸時代には笹目ささめ領に属した(風土記稿)。田園簿では田四〇七石余・畑一六三石余で、幕府領。元禄郷帳には内谷村五二三石余のほかに同村枝郷として大野村一五一石余が記される。寛文三年(一六六三)当村の一部が旗本大岡領となり、さらに享保一七年(一七三二)大岡領天沼あまぬま(現大宮市)の用水工事の影響により当村内で替地を与えられたと伝える(風土記稿)。以後相給のまま幕末に至るが、旧高旧領取調帳では大野村を含んでいる。


内谷村
うちやむら

[現在地名]国見町内谷

南北に長く、北から東にかけてのほとんどが山地で、西側に谷が、その南西扇状地があり、さらに南に平地がわずかに開ける。北部山地から村の東を金有沢かねありざわ川、西を矢木沢やぎさわ川が流れ、南部で合流したき川に注ぐ。西は鳥取とつとり村、南は山崎やまざき村、東は石母田いしもだ村。村名は谷に集落があることによるという(明治一四年「内谷村誌」国見町史)。文和三年(一三五二)一一月四日の奥州管領吉良貞家施行状(秋田藩家蔵赤坂光康文書)に当地名を名字とした伊達内谷民部少輔がみえる。天文七年(一五三八)の段銭古帳に伊達西根だてにしねのうちとして「うちやむら」とみえ、段銭は七貫五〇文。同二二年の晴宗公采地下賜録に内谷のうち「大ハし在家」とみえ、安積金七郎の伯父太郎右衛門が松音しようおん寺に寄進している。


内谷村
うちだにむら

[現在地名]石井町石井 内谷

尼寺にじ村の南、気延きのべ山東麓の谷に沿って集落が形成され、東は名東みうどう矢野やの村・観音寺かんのんじ(現徳島市)、西は石井村白鳥しろとり村、南は矢野村。「阿波志」によれば、元亀年間(一五七〇―七三)以西いさい郡に属したという。慶長二年(一五九七)の分限帳に村名がみえ、栗井半左衛門が七八石余を知行。正保国絵図でも高七八石余で、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方六七石余・畠方一一石余、芝山の注記がある。


内谷村
うつたにむら

[現在地名]岡部町内谷

岡部宿の南に位置し、西もほぼ岡部川を境に岡部宿。東海道が村の西境付近を南北に縦断する。集落は高草たかくさ山西麓の本郷ほんごうと藤枝宿へと続く新町しんまちとに分けられる。中世には内谷郷とよばれた。慶安二年(一六四九)の駿河国高付(志太郡誌)に内谷町とみえ、田方九〇六石余・畑方四九石余。元禄郷帳では高一千五二石余。国立史料館本元禄郷帳では田中藩領。その後同藩領がしばらく続くが(正徳二年土岐頼殷領知目録、享保九年土岐頼稔領知目録など)、享保一五年(一七三〇)上知され(「寛政重修諸家譜」、元文五年「田中藩領分村別」志太郡誌など)、以後幕末まで幕府領。


内谷村
うつたにむら

[現在地名]匹見町石谷いしだに

石谷川と内石うついし川の合流点から南方の石谷川上流に位置する。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高一五八石余、年貢高は田方六〇石余・畑方二六石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では有高一五七石余、免六ツ一分余。鑪経営も盛んで、木地屋原きじやばら鑪など数ヵ所がある。明治八年(一八七五)内石村と合併して石谷村となる。若宮神社が内谷の中央で石谷川右岸に鎮座。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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