日本の城がわかる事典 「鳥坂城」の解説 とっさかじょう【鳥坂城】 新潟県胎内市(旧北蒲原郡中条町)にあった中世の山城(やまじろ)。鳥坂山の支峰白鳥山(標高298m)に築かれていた越後の武将中条氏の居館だった江上館の実城である。平安時代末期の1180年(治承4)、越後守の城資永が有事の際の要害として取り立てたことが鳥坂城の起源ともいわれるが、築城時期は明らかにはなっていない。『吾妻鏡』の1201年(建仁1)5月14日条に、城資盛と叔母の板額がこの城で鎌倉幕府打倒の兵を挙げたが鎮圧され、城氏は滅亡したとの記述がある。その後、三浦和田氏一族の和田義茂が奥山荘の地頭に任命される。さらに、その領地はその後、北条、中条、南条に分割され、中条を相続した地頭の子息が中条氏を名乗った。1453年(享徳2)、中条房資は新城を築き、居城とした。中条氏は戦国時代になると越後守護上杉氏に仕え、上杉謙信の時には、中条家当主で鳥坂城主の中条藤資は、家臣筆頭の重臣として仕えた。1578年(天正6)の謙信死後、その後継をめぐって、上杉景勝・景虎の2人の養子が争った御館の乱では、城主の中条景泰が景勝方に与したことから、鳥坂城は景虎方の黒川氏に攻撃され落城したが、乱は景勝方の勝利で収束した。その後、景泰は越中の魚津城の城将の一人となったが、柴田勝家率いる織田信長の軍勢に攻められて切腹。嫡男の中条三盛(一黒丸)が惣領として城主になった。しかし、1598年(慶長3)の景勝会津移封に伴い、中条氏も会津に移ったことから廃城となった。現在、城跡には曲輪(くるわ)、堀切、段切などの遺構が残っている。JR羽越本線中条駅から徒歩約60分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報