鴨川村
かもがわむら
[現在地名]柳田村鴨川
曲流する町野川中流にあり、南西は国光村、南は石井村。村内に大干場・家中・宮谷内・金盛(金森)の字名があるという(鳳至郡誌)。柳田村の金山に発し、村内を貫流して町野川に注ぐ鴨川は神の川・神川であり、村名はこれによるとの説がある。元和八年(一六二二)の谷内村百万・麦生野小辻山論裁定状(麦生野区有文書)によれば、徳成谷内村・麦生野村(現輪島市)と当村の入会地で境論があり、石井村の十村九郎左衛門などにより裁定が下されている。
鴨川村
かもがわむら
[現在地名]杵築市鴨川
五田村の北西、高山川の支流鴨川の西に位置する。「豊陽志」によれば、建長二年(一二五〇)大友氏二代親秀の六男親重が、速見郡武者所を賜って木付庄に入り、初め鴨川に居住し、地名を取って木付を姓としたとあるが、木付の地名の所在は不明。鴨川の由来は、中世までこの付近は海で、鴨が飛来していたからと伝える。弘安一〇年(一二八七)一二月一八日の関東下知状案(石志文書)に「可令早松浦石志四郎壱領知豊後国八坂下庄木村内四箇名得一・鴨河・木苔・糺四郎事」とみえる。
鴨川村
かもがわむら
[現在地名]伏見区羽束師鴨川町
鴨川・桂川合流点の西岸に位置する。桂川からは桂川堤によって守られ、また桂川の水を引く北河原溝が字北河原から、東浦溝が字東浦から入って南流する。北及び西は久我村と接し、南は志水村と境する。
天元三年(九八〇)二月二日付某寺資財帳(金比羅宮文書)に、山城国の所領として石原田・梅津畠等とともに「鴨河野尻庄卅町」がみえる。この鴨河野尻庄の所在は鴨川村付近と考えられている。
近世、享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳によれば、総石高六三五石三斗四升四合、その内訳は北面衆知行分三五〇石、愛宕山領一四二石、廬山寺領五七石、遣迎院領二八石、本能寺領四〇石、八幡公文所領一四石、玉虫左兵衛代官所四石三斗四升四合であった。
鴨川村
かもがわむら
[現在地名]中村市口鴨川・奥鴨川
板ノ川村の北、衣掛と右城の二つの山の北東斜面を東南流する岩田川中・上流域を占める広域の村。下流から口鴨川・中鴨川・奥鴨川の三地区に分れ、各々に集落が散在する。地名は一条氏時代に京都の鴨川にちなんで付けられたという。近代に入り、口鴨川・奥鴨川の二村に分離。
天正一八年(一五九〇)の式地村地検帳に式地村を構成する地域名として、口賀茂川・中鴨川・奥鴨川がみえる。このほか同地検帳にみえる藤川(奥藤・藤ノ川に分れる)の地域ものちの鴨川村域に含まれると考えられ、以上の検地面積二二町二反余、屋敷数六五うち居屋敷三四。
鴨川村
かもがわむら
[現在地名]杵築市鴨川
高山川に支流溝井川が合流する地点を鴨川と称し、ここより上流で川の西方は速見郡、東方は国東郡に属し、安岐郷鴨川村となる。小倉藩元和人畜改帳では、安岐郷鴨川村で、高七二石余、家数六(うち本百姓二)・人数八、牛三とある。正保二年(一六四五)の木付江所替之節御引渡帳(松平家文書)に国東郡鴨川村とあり、高五五石とある。正保郷帳では安岐郷に属し、田方五〇石余・畑方五石余で、「柴山有日損所新田有」と注記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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