鹿伏村(読み)かぶせむら

日本歴史地名大系 「鹿伏村」の解説

鹿伏村
かぶせむら

[現在地名]相川町鹿伏

二見ふたみ半島北端に位置し、南は大浦おおら村、北は下戸おりと村、前面は海。海浜小港の立地にも恵まれ、「佐渡相川志」に「此磯、左右厳ク囲イ組テ、浪平カニ、泉水ノ如ク、風波ナクシテ、トロリト静カナリ」とある。元和二年(一六一六)越前岩倉いわくら(現福井県丹生郡織田町)から渡ってきた真宗門徒岩倉家が、当地の高位段丘部に開発を進めたといわれ(佐渡相川の歴史)ひらきの地字が残る。近世初頭から相川町の近郊集落としての性格をもち、野菜類の供給地であった。元禄七年(一六九四)検地帳(鹿伏区有)では田六町五反余・畑二四町六反余。当地でオオヤとよばれる旧家佐藤善兵衛家と池田清蔵家の二軒が各々二筆の屋敷を有し、耕地所有は佐藤家が田畑合せ一三町余(うち畑二町四反余)、池田家は田畑各四反。

鹿伏村
ししぶせむら

[現在地名]三木町鹿伏

平木ひらぎ村の東、しん川とふる川が合流する平木橋の東に位置する。寛永国絵図では井上いのえ郷に属する。寛永一九年(一六四二)の高松領小物成帳には綿一〇九匁とある。貞享高辻帳では朱印高二六四石。庄屋井上村または平木村と兼帯されることが多かった(「村高大小庄屋姓名覚帳」など)

鹿伏村
しかぶしむら

[現在地名]波賀町鹿伏

引原ひきはら川の上流域に位置し、南は引原村領主変遷たに村と同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方五石余・畠方六九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報