井上村(読み)いのえむら

日本歴史地名大系 「井上村」の解説

井上村
いのえむら

[現在地名]三木町井上

現三木町の最北に位置する。北部の立石たていし山・峰堂みねんどう(無念堂山)の連なる山地と丘陵地がほとんどで、平地は少ない。他の河川とは逆に南流する寒国かんくに川は「玉藻集」に井上のさかさ川と記される。高野たかや八幡神社の近くには高野八幡神社古墳があり、北方には古代の始覚しかく寺跡がある。また南部には古代の官道南海道が走っていたと推定されている。「和名抄」三木郡井上いのへ郷の遺称地。嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)の讃岐国に「三木井上郷冷泉三位入道」とみえ、知行主の冷泉三位入道は、正応二年(一二八九)従三位で出家した冷泉親業と推定される。「三代物語」などによれば、河内源氏の松原五郎が天正年間(一五七三―九二)住した。

井上村
いのうえむら

[現在地名]須坂市井上町

現須坂市南西部。東はたけじよう清水しみず山北嶺の山稜で八町はつちよう村、耕地・あい川堤塘で野辺のべ村と境、北は径路・水路で幸高こうたか村・九反田くたんだ村・中島なかじま村と境、西は径路・堰で福島ふくじま村、道路・十九つつ川(権五郎ごんごろう川)で綿内わたうち(現長野市若穂)、南西は十九鼻つつがはな・小城・大城・大洞おおぼら山・清水山の線で綿内村と境する。南端は清水山である。南部は山地、西北部は水田地帯、東・西両山嘴間の鮎川扇状地上に集落がある。なお大洞山麓に土栗つちぐり、大城山麓に小坂おさかの枝村がある。

主村町組は東西約六〇〇メートルの枡形を持つ町並、南町・北町・北裏町とし、鮎川引水を分流させる。

井上村
いのうえむら

[現在地名]小郡市井上

宝満ほうまん川中流左岸に位置し、西は同川を挟んで大板井おおいたい村に接する。南方に上岩田かみいわた村・松崎まつざき町・下岩田村に囲まれた飛地がある。薬師堂やくしどうでは上岩田遺跡につながる弥生時代後期から平安時代に及ぶ遺物が多数発見され、村囲むらがこいを中心に白鳳期後半の建立という古寺(井上廃寺)の寺域が推定されている。久留米藩領古図に井上村とみえる。本高は三四〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高四五〇石・役高五五三石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高五五六石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田三三町八反余・開田二反余・畑田五町四反余・畑二七町余・居屋敷九反余。

井上村
いのうえむら

[現在地名]緒方町井上

野尻のじり村の西、緒方川北岸にある。正保郷帳に村名がみえ、田高四一九石余・畑高一二六石余、緒方郷に属した。天保(一八三〇―四四)頃と推定される御案内記(大久保家文書)では高六四九石余、反別は田四五町七反余・畑一三町七反余・屋敷一町七反余・開畑四町五反余・開田六畝、免一〇ツ成の上の村で、物成は米六二三石余・大豆六六石余、家数六九・人数二六四、牛七七・馬一四。安永七年(一七七八)には井上組に属し、同組大庄屋孫兵衛の役宅があった(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

井上村
いあげむら

[現在地名]斐川町鳥井とりい

北流する斐伊川右岸の水田地帯にあり、北東は鳥屋とや村、東はとび村、南は別名べつみよう村、西は斐伊川を挟んで武志たけし(現出雲市)に面する。初め神門かんど郡に属した。文政七年(一八二四)の有高輪切帳写(県立図書館蔵)に記載された輪は塚崎つかざき輪・日焼田ひやけだ輪・戌亥住いぬいずみ輪・菅原すがわら輪。対岸の武志村へ架けられた井上橋は当村橋本氏の橋で、毎年秋に架橋し春にはずす習わしで、井上・別名両村の各戸から橋賃として麦一・二升を持参、これを橋麦といった(伊波野村誌)

井上村
いのかみむら

[現在地名]龍野市誉田町井上ほんだちよういのかみ

片吹かたぶき村の北に位置し、揖東いつとう郡に属する。北は高駄たかだ村、東は林田はやしだ川を挟んで阿曾あそ(現太子町)。天正一六年(一五八八)六月五日の浅野長政・増田長盛連署裁許状(岩見井組文書)に井上村とみえ、当村の溝から岩見いわみ井へ水を落す際は筒樋を使うこととされた。当村は文禄四年(一五九五)五月吉日の揖保川井堰絵図(同文書)では岩見井が安志あんじ(林田川)に落ちる地点の北側に記され、小宅おやけ井の末端に位置した。

井上村
いのうえむら

[現在地名]栗東町井上

東坂ひがしさか村の西、金勝こんぜ谷の山間に立地。地内に「興福寺官務牒疏」にみえる金勝こんしよう寺二五ヵ別院の一で、安的開基の如来によらい寺があったと伝える。同寺は寛徳二年(一〇四五)に炎上したが、当地の土豪小槻為綱が再興。しかし永禄(一五五八―七〇)・元亀(一五七〇―七三)年中の兵火により焼亡したとされる。享保二〇年(一七三五)の如来寺跡調書(近江栗太郡志)には境内地一九町四二間であったとある。

井上村
いのうえむら

[現在地名]岩倉市井上町

北は曾本そもと(現江南市)、東は八劔やつるぎ村、南は神野かみの村、西はおさな(五条川)を境として加納馬場かのうばば(現一宮市)に接する。天保村絵図によれば、東西四町余・南北六町三〇間余のほぼ長方形の村域。畑は北と東に、田は南に、集落は中央西寄り幼川堤に接して描かれている。「建内記」嘉吉元年(一四四一)一二月九日条に「尾州井上庄大円寺中怡西堂送状、愚息小童(中略)有芳志三百疋」とあって、井上庄の中心と考えられ、康正二年(一四五六)九月四日の祖立大成寺住持職譲状(妙興寺文書)に「尾張州丹羽郡井宇郷」と記される。織田信雄分限帳では「一、五拾貫文 井上郷 目くすし意盛」とある。

井上村
いのうえむら

[現在地名]玉造町井上

霞ヶ浦沿岸にあり、北は出沼いでぬま村、東は藤井ふじい村。「常陸国風土記」に「倭武の天皇、天の下を巡狩めぐりみそなはして、海の北を征平ことむけたまひき。是に、此の国を経過ぎ、即ち、槻野の清水に頓幸し、水に臨みてみ手を洗ひ、玉もちて井を栄へたまひき。今も行方の里の中に在りて、玉の清水と謂ふ」とあり、村内の小名玉清井たまきよいが記される。古代は「和名抄」にいう井上郷の本郷の地(新編常陸国誌)で、中世は下河辺氏の支配下にあり、建保元年(一二一三)の井上八幡宮棟札写(松金氏蔵)に「地頭下河辺安房守」、享禄二年(一五二九)の同棟札写(同氏蔵)には「地頭下河辺淡路守」とある。

井上村
いのうえむら

[現在地名]安濃町川西かわにし

北大谷きたおおたに川左岸の平地にあり、村主すぐり村の南西にあたる。集落は村域の東端にある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「井上」と現れる。慶長一三年(一六〇八)以後津藩領であったが、寛文九年(一六六九)久居藩領となる。寛延(一七四八―五一)頃の戸数四〇、ほかに郷士一、人口一八四、馬一、牛九で、神祠は若一にやくいち王子・八幡、寺院は村主そんしゆ(宗国史)。明治五年(一八七二)の村明細帳(徳川林政史蔵)に戸数三三、人数一五六(男七三・女八三)、紺屋一、牛一〇。

井上村
いのうえむら

[現在地名]北部町改寄あらき 井上

坪井つぼい川上流にあり、川に沿って水田が開ける。北は津留つる村、西は小糸山こいとやま村に接する。「国誌」によれば、五町手永に属し、「太郎丸村包出村等ノ小村アリ」とある。宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳には、津留・前原まえはる立石たていし村と併記され、宝出原ほうでばる松尾原まつおばる柳井田やないだ前畑まえはたなどの下ケ名がある。

井上村
いのうえむら

[現在地名]いわき市山田町やまだまち

さめ川下流左岸にあり、南対岸は沼部ぬまべ村、東は林崎はやしざき村。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)泉藩領、元禄一五年(一七〇二)幕府領、宝永三年(一七〇六)以降湯長谷藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高二九五石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では井之上村とあり、高四四五石余。

井上村
いのうえむら

[現在地名]臼杵市吉小野よしおの 井上・井上鍛冶いのうえかじ

岩屋川いわやがわ村の西、臼杵川の支流中臼杵川の中流右岸に位置する。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえ高九六石余、うち田方七四石余・畑方二一石余、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳では吉小野村組に属し、村高九六石余のうち五二石余は稲葉通孝領であった。寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)では末広村組に所属、のち岩屋川組に属した(万用集)。正保郷帳では臼杵庄に属する。高は幕末までほぼ変化なかった。江戸時代中期と推定される臼杵領石高帳では田方八町余・畑方六町余、免七ツ八歩。明治八年(一八七五)岩屋川村など三村と合併し、吉小野村となる。

井上村
いのうえむら

[現在地名]会見町井上

大谷おおだに村の南東、小松谷こまつだに川上流左岸の山麓に位置し、南は御内谷みうちだに村。拝領高は二〇一石余、本免は四ツ八歩。藪役銀一八匁が課せられていた(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二四〇石余、竈数三〇。「伯耆志」では家数三一・人数一四一、林七町三反余。産土神は宮谷みやだに村の熊野権現で、ほかに村内には小祠六・辻堂二があった(伯耆志)

井上村
いのかみむら

[現在地名]上郡町井上

上郡村の北西、千種ちくさ川中流右岸に位置する。主集落はこま山の南山裾に並ぶ。千種川から取水する大溝おおみぞと称する用水路の取水口にあたることからの村名とみられる。大溝は千種川右岸の当村・大持だいもち村・竹万ちくま村と上郡村の一部の田の灌漑用水となっている。江戸時代の領主の変遷は元禄一四年(一七〇一)まで上郡村に同じ。翌一五年赤穂藩領、宝永三年(一七〇六)幕府領、同五年相模小田原藩領、延享四年(一七四七)幕府領、明和六年(一七六九)以降尼崎藩領(以上「上郡町史」)

井上村
いがみむら

[現在地名]名田庄村井上

なか村・西谷にしだに村の西方に位置し、村域はみなみ川両岸に広がる。人家も両岸に井上・佐野さのと分れるが、集落としては一体をなす。中世には名田庄上庄に属したが、建保三年(一二一五)一二月一六日付大姫御前譲状案(大徳寺文書)に「わかさの名田の庄上下、少将さねたゝにゆつりたてまつる也。そのうちすゑの・いかみと申所ハ、せんし御前にわかちゆつり候ぬ」とあって、他の名田庄の村々とは別相伝された。

井上村
いのうえむら

[現在地名]本匠村井ノ上

小半おながら村の西、番匠ばんじよう川上流(因尾川)域の山間村。同川流域の河岸台丘上に集落がある。井野上とも記す。正保郷帳に井上村とみえ、田高三一石余・畑高五七石余、因尾いんび郷に属した。元禄見稲簿では因尾村の内で無高。旧高旧領取調帳では高一六八石余。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)では因尾村の枝郷とみえ、地内に楠木くすぎがある。

井上村
いのうえむら

[現在地名]関城町井上

黒子くろご村・つじ村の北に位置し、村の東北端を大谷おおや川が南流する。中世は下妻庄黒子郷に属し、戦国時代には多賀谷氏領で、慶長七年(一六〇二)に天領となる。寛永一〇年―天和元年(一六三三―八一)は古河藩領で(寛政重修諸家譜、寛文朱印留)、寛文五年(一六六五)・延宝六年(一六七八)に検地が行われた(「河内郡井上村屋敷改帳・同高盛帳」淀縄家文書)。その後再び天領となり、幕末は天領二九四石余、旗本須田・井出・新庄各氏領各一四一石余(各村旧高簿)

井上村
いのうえむら

[現在地名]八代市井上町

東は下片野川しもかたのがわ村、南は日置へき村に接する広大な水田地帯。鐘楼堂しようろうどう貝塚から縄文晩期の夜臼式土器、石器が出土している。慶長六年(一六〇一)一〇月三〇日の加藤清正黒印状(津奈木文書)に「八代郡三ケ井上村」とみえ、当村のうち五〇〇石が六車半三に宛行われている。慶長国絵図には「井ノ上村」とあり、正保郷帳では田方一千二〇七石五斗余・畠方六五石七斗余。寛永五年(一六二八)九月一三日の加藤忠広黒印状写(天草文書)によると、忠広は天草吉兵衛に「三ケ村之内井上村」の亡父の跡高三〇〇石を宛行った。

井上村
いのうえむら

[現在地名]筑後市井田せいでん

下牟田したむた村の東、花宗はなむね川左岸に位置する。本高は九二石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三八〇石・役高三〇八石。享和二年(一八〇二)の春免高帳によると高三〇八石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一九町五反余・畑田七反余・畑五反余・居屋敷二反余。旧高旧領取調帳では高四二一石余。

井上村
いのうえむら

[現在地名]三木市志染町井上しじみちよういのうえ

なか村の東、志染川の中流右岸に位置する。井ノ上村とも書いた(元禄郷帳)。慶長国絵図に井上村とみえ、その周囲に北井上・西井上・東井上と記されている。領主の変遷は四合谷しごうだに村と同じ。正保郷帳では田方四二五石余・畑方七一石余。天保郷帳では高五一七石余。嘉永五年(一八五二)成立の「三木郡志」によれば田数三三町余、家数五八・人数二七七、牛三二。

井上村
いのうえむら

[現在地名]丹後町へい 井上

川の下流右岸、平村の東南方に位置し、四周を山で囲まれる。中世宇川保の地。近世初期も宇川村の内で、慶長検地郷村帳に「宇川村之内井上村」と記される。寛文九年(一六六九)分離・高付された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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