鹿瀬村(読み)かのせむら

日本歴史地名大系 「鹿瀬村」の解説

鹿瀬村
かのせむら

[現在地名]鹿瀬町鹿瀬

阿賀野川左岸に位置し、北は同川を隔てて向鹿瀬むかいかのせ村、南は同川の支流常浪とこなみ川を隔てて津川つがわ(現津川町)。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「鹿瀬 五百七十一石三斗九升」とみえる。「新編会津風土記」に、家数として東の上村は五五、西の下村は四二とあり、小名の角神つのがみは一、端村の深戸ふかどは三二、中岩沢なかいわざわは三とある。同書によれば、揚川(阿賀野川)沿いに田圃があり、寛永二〇年(一六四三)には郷頭大江惣左衛門某家の出資で水利を開き田畑を開墾したとあるが、田地には恵まれない。


鹿瀬村
かせむら

[現在地名]御津町鹿瀬

曲流する旭川右岸に位置し、南は草生くそう村、西は西原にしばら(現建部町)と接する。寛永備前国絵図に一四七石余とある。「備陽記」では田畑一三町四反余、家数三九・人数二一六。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば、田はなく、畑高一五二石余・一五町余。直高二三八石余で家老日置元八郎の給地。家数四五・人数一八六、うち紺屋一・大工四・紙漉一。給人藪四反余、百姓自林四町一反余、牛一五。産土神は古森こもり大明神(現古森神社)であった。日蓮宗以(医)応寺清人坊があったが、寛文六年(一六六六)に住僧が還俗し廃寺となっており(「寛文年中亡所仕古寺跡書上帳」池田家文庫)、また寛文年中に村内の六社を宇甘上うかいかみ村の枝村下畑しもはたの寄宮に合祀している(「御領内寄宮記」同文庫)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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