三島由紀夫(読み)ミシマユキオ

デジタル大辞泉 「三島由紀夫」の意味・読み・例文・類語

みしま‐ゆきお〔‐ゆきを〕【三島由紀夫】

[1925~1970]小説家劇作家。東京の生まれ。本名、平岡公威ひらおかきみたけ。小説「仮面の告白」で作家としての地位を確立、以後、唯美的傾向と鋭い批評精神を特質とする作品を発表。割腹自殺。小説「金閣寺」「潮騒しおさい」「豊饒の海」、戯曲集「近代能楽集」など。

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共同通信ニュース用語解説 「三島由紀夫」の解説

三島由紀夫

三島由紀夫みしま・ゆきお 1925年東京生まれ。本名は平岡公威ひらおかきみたけ。東大法学部卒業後、旧大蔵省に入るが短期間で退職し、作家活動に専念。60年代には、ノーベル文学賞の有力候補だった。左翼運動の台頭に危機感を抱き、憲法や国防への関心を強め、68年には学生らに呼び掛け民間防衛組織「楯の会」を結成。自衛隊への体験入隊を重ねる。代表作に「仮面の告白」「金閣寺」「潮騒しおさい」「豊饒の海」など。

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精選版 日本国語大辞典 「三島由紀夫」の意味・読み・例文・類語

みしま‐ゆきお【三島由紀夫】

  1. 小説家、劇作家。東京出身。本名平岡公威。東京大学法学部卒。古典主義的な緻密な構成と華麗な文体で独自の様式美を備えた文学世界を展開。唯美的なナショナリズムに傾斜し、自衛隊市ケ谷駐屯地で割腹自殺を遂げた。著「仮面の告白」「禁色」「金閣寺」「鹿鳴館」「豊饒の海」など。大正一四~昭和四五年(一九二五‐七〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三島由紀夫」の意味・わかりやすい解説

三島由紀夫
みしまゆきお
(1925―1970)

小説家。本名平岡公威(きみたけ)。父梓(あずさ)と母倭文重(しずえ)の長男として大正14年1月14日東京四谷(現、新宿区)に生まれる。満年齢が昭和の年数と一致するという点にも時代との関係がみられる。1931年(昭和6)学習院初等科に入り、高等科まで学習院で学ぶ。10代前半から小説を発表し、1944年、小説集『花ざかりの森』を刊行した。恩師清水文雄を通じて国文学の伝統を知り、日本浪曼(ろうまん)派の間接的な影響を受けていた。1944年、東京帝国大学法学部に入学、翌年勤労動員先の工場で日本の敗戦を知る。戦争と三島との関係は、孤独な少年の夢みた滅亡の美への共感が、時代と協和音を奏でていたものと想定される。1946年(昭和21)川端康成(やすなり)の推薦で短編煙草(たばこ)』を発表、早熟の新人として認められ、長編『仮面の告白』(1949)で作家としての地位を確立した。この時代の三島の作風は、民主主義の確立を目ざす動向に同調せず、華麗な美の創造を目ざしたが、その根底にはニヒリズムがあって、それが同時代の読者とのきずなになっていた。続いて『愛の渇(かわ)き』(1950)、『青の時代』(同)を発表したが、1952年のギリシア訪問の影響で「外面均斉」とギリシア的健康に共感し、これが『潮騒(しおさい)』(1954)に結実するとともに、作風も知的均斉を重んじるようになる。『金閣寺』(1956)はこの時期の頂点を示す小説である。やがて『鏡子の家』(1959)で戦後という時代への決算を小説の形で行う。

 1960年安保の翌年、短編『憂国』で二・二六事件の青年将校を描く(この作品はのち1965年に自ら製作・脚色・監督・主演して、能形式により映画化した)。その後、昭和への関心が強まり、評論『林房雄論』(1963)を通って『英霊の声』(1966)に至る。三島は劇作家としても優れた才能を示し、『近代能楽集』(1956刊)、『鹿鳴館(ろくめいかん)』(1957)などを出していたが、その後『サド侯爵夫人』(1965)のような秀作もある。また擬古典的な歌舞伎(かぶき)劇の新作にも優れた才能を示し、『鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)』(1954)、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』(1969)などは好評を博した。小説は『宴(うたげ)のあと』(1960)、『絹と明察』(1964)などがあったが、1960年代の後半に至って「文武両道」を唱えるようになると、「文」に対立する「武」の領域に実践が現れた。すなわち自衛隊に体験入隊し、「楯(たて)の会」を結成する。この時期に最後の長編『豊饒(ほうじょう)の海』(全4巻、1970年完結)を書き続けたが、1970年(昭和45)11月25日午前、「楯の会」の学生森田必勝ほか3名とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地に至り、決起を呼びかけたが果たさず、総監室で割腹自殺した。西欧的な知性に基づく様式感覚と昭和のナショナリズムとの両者に根ざしている三島の思想と文学は、晩年には戦後社会へのアンチテーゼとして後者のナショナリズムに賭(か)けたとみられる。

[磯田光一]

『『三島由紀夫全集』35巻・補巻1(1973~1976・新潮社)』『磯田光一著『殉教の美学』(1964・冬樹社)』『野口武彦著『三島由紀夫の世界』(1968・講談社)』『佐伯彰一著『評伝三島由紀夫』(1978・新潮社)』『『日本文学研究資料叢書 三島由紀夫』(1971・有精堂出版)』『『三島由紀夫事典』(1976・明治書院)』『『新潮日本文学アルバム 三島由紀夫』(1983・新潮社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「三島由紀夫」の意味・わかりやすい解説

三島由紀夫 (みしまゆきお)
生没年:1925-70(大正14-昭和45)

小説家,劇作家。東京生れ。本名平岡公威(きみたけ)。1931年学習院初等科に入り,高等科まで学習院で学ぶ。この時代に文学活動を開始し,第1作品集《花ざかりの森》(1944)を刊行。20歳で敗戦をむかえるが,敗戦を何ものかの喪失と感じた時代感覚は,のちに三島の思想の根幹を形づくる。47年に東大法学部を卒業。49年に《仮面の告白》を刊行して作家としての地位を確立し,つづいて長編小説《愛の渇き》《青の時代》(ともに1950)を刊行。後者は当時話題になった金融業の学生社長をモデルにしたもので,《金閣寺》のモデルの場合と同じように反社会的な情熱が作品の主題になった。この時期の三島は,ニヒリズムを持った反社会的人物を知的な文体でえがき,その美と悪の香気によって青年読者をひきつけた。《禁色(きんじき)》(1951)とその第2部《秘楽(ひぎよう)》(1953)にも同様な傾向が認められる。52年におけるギリシア訪問を契機に,ギリシア的な健康への希求が生まれ,牧歌的な小説《潮騒》(1954)に結実しただけでなく,のちにボディビルで肉体を鍛える態度の伏線を形づくった。56年に《金閣寺》で芸術的な一つの到達点をきわめたのち,《鏡子の家》(1959)で〈戦後〉という時代のニヒリズムと行為をえがいたが,60年安保のあと二・二六事件に取材した《憂国》(1961)にいたって〈戦前〉的なものが作品に入りはじめる。この傾向はやがて《林房雄論》(1963)や《英霊の声》(1966)でいっそう鮮明になり,《豊饒(ほうじよう)の海》(1965-70)にいたる。この過程で67年に自衛隊に体験入隊,68年に〈楯の会〉を結成し,70年11月25日に自衛隊市谷駐屯地で隊員の決起をうながしたが果たさず,割腹自殺した。このようなナショナリズムの軸のほか,西欧的な芸術造形が三島の作品の魅力のひとつを形づくっている。劇作家としての作品では《鹿鳴館》(1958),《サド侯爵夫人》(1965)がある。
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20世紀日本人名事典 「三島由紀夫」の解説

三島 由紀夫
ミシマ ユキオ

昭和期の小説家,劇作家



生年
大正14(1925)年1月14日

没年
昭和45(1970)年11月25日

出生地
東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区)

本名
平岡 公威(ヒラオカ キミタケ)

学歴〔年〕
東京帝国大学法学部〔昭和22年〕卒

主な受賞名〔年〕
新潮社文学賞(第1回)〔昭和29年〕「潮騒」,岸田演劇賞(第2回)〔昭和30年〕,読売文学賞(小説賞 第8回)〔昭和31年〕「金閣寺」,読売文学賞(劇曲賞 第13回)〔昭和36年〕「十日の菊」

経歴
学習院高等科在学中の昭和16年に「花ざかりの森」を発表。この頃から日本浪漫派の影響をうける。22年東大卒業と同時に大蔵省に勤務するが、23年創作活動に専念するため退職。24年「仮面の告白」を刊行し、作家としての地位を築く。29年「潮騒」で新潮社文学賞を、30年「白蟻の巣」で岸田演劇賞を、31年「金閣寺」で、36年「十日の菊」でそれぞれ読売文学賞を受賞するなど、小説、劇曲、評論の分野で幅広く活躍。43年10月楯の会を結成。44年「豊饒の海」全4巻を完結させた後、45年11月25日楯の会会員・森田必勝ら4名と共に自衛隊市ケ谷駐屯地に突入、憂国の檄をとばした後、割腹自決をとげた(三島事件)。他の代表作に小説「愛の渇き」「美徳のよろめき」「宴のあと」「鏡子の家」「午後の曳航」「憂国」「英霊の声」、戯曲「鹿鳴館」「近代能楽集」「サド侯爵夫人」などの他、「三島由紀夫全集」(全35巻・補1巻 新潮社)、「三島由紀夫短編全集」(全2巻 新潮社)「決定版 三島由紀夫全集」(全42巻 新潮社 平12年〜)がある。命日には憂国忌が営まれている他、没後様々な未公開資料が発見、または公表されている。平成10年友人の米国コロンビア大学名誉教授ドナルド・キーンにあてた15年間の書簡が「三島由紀夫未発表書簡―ドナルド・キーン氏宛の97通」として刊行された。11年山梨県山中湖村に三島由紀夫文学館がオープン。

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百科事典マイペディア 「三島由紀夫」の意味・わかりやすい解説

三島由紀夫【みしまゆきお】

小説家,劇作家。本名平岡公威(きみたけ)。東京生れ。東大法学部卒。官吏を辞して創作に専念,長編《仮面の告白》(1949年)で文壇に出た。世の良識が不道徳,退廃とするものを,典雅な文体と構成の中に描いた作品が多い。《愛の渇き》《金閣寺》《美徳のよろめき》《宴のあと》や,戯曲《白蟻の巣》《鹿鳴館》《喜びの琴》,戯曲集《近代能楽集》などがあり,広く海外にも紹介された。また《憂国》《剣》《英霊の声》など憂国的心情からの小説があり,1968年憲法改正を求める組織〈楯(たて)の会〉を結成,1970年11月25日東京市ヶ谷の自衛隊総監部を襲い,事成らず,割腹自殺。《豊饒の海》四部作が絶筆。
→関連項目磯田光一市川崑近代文学群像渋沢竜彦野坂昭如土方巽細江英公安岡正篤ユルスナール

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三島由紀夫」の意味・わかりやすい解説

三島由紀夫
みしまゆきお

[生]1925.1.14. 東京
[没]1970.11.25. 東京
小説家,劇作家。本名,平岡公威 (きみたけ) 。学習院高等科を経て 1947年東京大学法科卒業。第2次世界大戦中『日本浪曼派』の影響を受けて文芸に親しみ,短編集『花ざかりの森』 (1944) を刊行。戦後 49年『仮面の告白』の成功で文壇的地位を確立,『愛の渇き』 (50) ,『禁色』 (51~53) など問題作を次々に発表した。透徹した方法論のもとに緻密な世界を築いたが,その作風は唯美主義から古典的均整を求める方向に移行し,『金閣寺』や『橋づくし』 (56) で一つの頂点に達した。以後思想的に右傾し,独自の文化防衛論を説くとともに,『憂国』 (61) ,『英霊の声』 (66) などを発表。『太陽と鉄』 (65~68) を経て,『豊饒の海』 (65~70) 完成直後,みずからの組織する「楯の会」会員とともに自衛隊内に乱入,決起を訴えたが果さず,割腹自殺した (→三島事件 ) 。劇作家としてもすぐれ,『近代能楽集』 (56) ,『鹿鳴館』 (57) ,『サド侯爵夫人』 (65) などの作がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三島由紀夫」の解説

三島由紀夫 みしま-ゆきお

1925-1970 昭和時代後期の小説家。
大正14年1月14日生まれ。昭和24年「仮面の告白」で作家の地位を確立,古典的様式美とエロスを追究した。のちナショナリズムに傾斜し,「楯(たて)の会」を結成。昭和45年11月25日自衛隊市谷駐屯地において,隊員に決起をうながす演説のあと切腹した。45歳。東京出身。東大卒。本名は平岡公威(きみたけ)。代表作に小説「金閣寺」「豊饒(ほうじょう)の海」,戯曲「鹿鳴館(ろくめいかん)」など。
【格言など】本当の文武両道が成立つのは,死の瞬間にしかないだろう(三島由紀夫展カタログ)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三島由紀夫」の解説

三島由紀夫
みしまゆきお

1925.1.14~70.11.25

昭和期の小説家・劇作家。本名平岡公威(きみたけ)。東京都出身。東大卒。学習院時代,16歳で「文芸文化」に「花ざかりの森」を発表する早熟さをみせる。1949年(昭和24)「仮面の告白」で新進作家としての地位を確立。「禁色(きんじき)」「潮騒」「金閣寺」「憂国」「サド侯爵夫人」「豊饒の海」など絢爛たる文体による緻密な構成の作品を多く発表した。68年楯の会を結成し,70年その会員4人とともに自衛隊市ケ谷駐屯地に赴きクーデタ決起を促したが,失敗して割腹自殺。「三島由紀夫全集」全42巻,補巻1巻,別巻1巻。

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旺文社日本史事典 三訂版 「三島由紀夫」の解説

三島由紀夫
みしまゆきお

1925〜70
昭和期の小説家・劇作家
東京の生まれ。東大卒。『仮面の告白』(1949)で注目をあび,以後『潮騒』『金閣寺』などをはじめ,古典主義的な美意識に支えられた多くの作品を著す。自衛隊に体験入隊後,「楯の会」を組織し,'70年11月,東京市ケ谷の自衛隊で決起を訴え割腹自決した。

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367日誕生日大事典 「三島由紀夫」の解説

三島 由紀夫 (みしま ゆきお)

生年月日:1925年1月14日
昭和時代の小説家;劇作家
1970年没

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世界大百科事典(旧版)内の三島由紀夫の言及

【仮面の告白】より

三島由紀夫の長編小説。1949年(昭和24)に書下ろしで河出書房から刊行。…

【新劇】より

…その意味では青山杉作,千田是也,東野英治郎,小沢栄太郎らで1944年に創立された〈俳優座〉の活動がまず注目される。すなわち,過去の政治的主題偏重の反省に立ち,俳優術そのものの再検討によって演劇表現の〈アカデミズム〉を確立しようとした俳優座は,48年に〈創作劇研究会〉を発足させ,三島由紀夫ら新人劇作家に上演の場を提供するとともにこれを演技研究の場ともした。49年秋には,俳優座演劇研究所を創立,3年制の俳優養成機関も付属させ,さらに54年4月には,独力で俳優座劇場を建設・開場して,他の新劇団にも開放した。…

【唯美主義】より

…これをうけて,フランスの悪魔主義の作家ペラダンは《トルストイに応える》を書き,〈美が生み出すのは感情を観念に転化する独自の歓び,つまり抽象的な動きである〉と反論した。これは唯美主義の本質をつく言葉であり,ワイルドにも,またその影響が濃厚な《禁色》の作家三島由紀夫や,同じくワイルドの《謎をもたぬスフィンクス》を種本に短編《秘密》を書いた谷崎潤一郎にも当てはまる。 19世紀以来の唯美主義は観念的美の世界と悪魔的な官能美への惑溺,すなわちデカダンスdécadenceの二極を絶えず往復しているが,これはスウィンバーンに影響を与えたフランスの文学者ゴーティエボードレールに始まる。…

※「三島由紀夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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