開国後の日本で欧米をモデルとして制度文物を変革していこうとした動向をいう。狭義では,1880年代半ばに条約改正と関連して明治政府が推進した,鹿鳴館に象徴されるような洋風化の動向,あるいは,それを〈貴族的欧化主義〉と批判し,みずから〈平民的欧化主義〉を唱道した日清戦争前の徳富蘇峰らの言動をさす場合がある。〈欧化〉という言葉は欧米化が簡略化したものであるから,1945年の敗戦後に〈アメリカナイゼーション〉と称された動向なども欧化に含めてよいが,最近では〈欧化〉〈欧化主義〉よりも〈西洋化〉〈西洋主義〉という言葉のほうが一般化している。
欧化主義は,幕末に圧倒的に優勢な西洋列強が接近してきた状況のもとで,日本の独立を防衛するためにその文明を導入するという形態をとって勃興した。その源流は〈東洋の英国〉を目標とした18世紀末の本多利明に求められる。しかし,その本格的な展開は,社会政治秩序は伝統を維持しつつ,軍事や科学技術の面のみで西洋文明を導入しようとした〈東洋道徳・西洋芸術〉的立場が克服され,社会政治制度をも含めて西洋文明を全面的に摂取しようとする動向が開始された以後である。明治初年の啓蒙思想と文明開化はその最初の高まりであるが,そこでは独立の危機が深刻に自覚されればされるほど,それだけ急激に欧化が推進された。1880年代半ばになると,この急激な欧化に対する反動として国粋主義が興隆し,天皇の神聖性や家族的・共同体的秩序など伝統の保守を強調するが,〈採長補短〉という言葉が示すように,それも西洋の〈長所〉の導入には必ずしも反対でなかった。それ以後,欧化主義と国粋主義とは対立しつつ併存し,それぞれのしかたで近代日本の国家体制を支える。ただ,大正デモクラシーやとくに昭和の共産主義のように欧化主義が国粋主義を否定しようとするとき,それは反体制化し,逆にそうした欧化主義に直面するとき,国粋主義は激しく燃え上がってますます極端化した。
欧化主義は西洋の何をモデルとするかに応じて,そのあり方が変わってくる。自由権利や科学的・実験的精神あるいはキリスト教といった西洋文明の原理ないし精神に着目する場合には,思想性が深まるのに反して,具体的な制度や風俗に視野が限られる場合には,表面的な性格が強くなる。専制→立憲→民主,あるいは軍事型社会→産業型社会といった歴史発展の図式に焦点をおくものは,その中間といってよかろう。ごく概括的にみると,原理的欧化主義は伝統的な原理や秩序と格闘しつつ西洋文明を導入しようとした比較的初期に広く現れたのに対して,いわば風俗的な欧化主義は西洋化がいちおう軌道にのった以後に一般化した。また,後者は模倣性が強い反面,根本的価値観の点では国粋主義的でありえたのに反して,前者は文明の原理・精神が普遍性をもつかぎり,むしろ模倣性は弱いということができる。
欧化主義は西洋のどの国をモデルとするかによっても,その性格が異なってくる。ごくおおざっぱには,ドイツはおもに官僚などにとって,国家主義のモデルとなるのに対して,イギリス,フランス,とくにアメリカは政党その他にとって,自由主義的な立場のモデルとなることが多かったといってよかろう。しかし,たとえば国家機構の内部で,海軍が当初からイギリスをモデルとし,警察がドイツとともにフランスをモデルとしていたことからわかるように,分野によってモデル国が交錯していることに注意しなければならない。それ以上に重要な点は,近代日本で西洋という際,もっぱら念頭におかれたのは西洋列強=先進国であり,モデル国もほぼそれに限定されていたという事実である。社会主義ないし共産主義も先進国モデルであったし,国粋主義すらも明白または暗黙に列強の富国強兵や帝国主義をモデルとしていた。これに対して,明治の安部磯雄や内村鑑三,大正の新渡戸稲造らがスイス,オランダやスカンジナビア諸国をモデルとして言及したとき,それは西洋列強をモデルとしてひたすら軍事的膨張主義の道を驀進する近代日本に対する痛烈な批判にほかならなかった。この事実は列強モデルに反対のごく少数の人々すら,敗戦前には西洋以外にモデル国を求めえなかったという点でも重要である。敗戦後に中国をモデルとする動向が出てくることは,この意味で注目に値する(社会主義における先進国モデルとみれば,別に新しい点はないが)。
敗戦とともに西洋化の動向が明治初期にもまして激しく高まり,自由と民主主義あるいは社会主義の理想が高らかに主張された。ここでは,さまざまの方法による西洋との接触は,かつてのように比較的少数のエリートなどに限定されず,はるかに多数の人々に開かれる反面,西洋化に対立する伝統的な価値は,戦前とは比較できぬほど弱まっていた。しかし,これらの事実は,世界における東西両陣営の激しい冷戦とあいまって,むしろ西洋主義を急速に風俗化させることとなる。こうした状況のもとで,〈西欧に追いつき追いこせ〉という高度経済成長が進行するが,その一応の実現は,欧米先進国のみならず社会主義国にも行詰りないし根深い矛盾が顕在化したことを背景として,一方では,産業化=西洋化に対する根本的な疑問を惹起すると同時に,他方では,〈もはやモデルを外に求めえない〉という意識を生み出すことになった。有史以来,観念の世界ではなくて外の世界にモデルを求めてきた日本の伝統が,果たして打ち破られるかどうかは将来の問題である。
→国粋主義
執筆者:植手 通有
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
明治政府による上からの近代化の基調となった西欧化政策一般をいうが、とくに明治10年代後半から20年代初めにかけて、条約改正の急速な実現のためにとられた外交政策と社会現象をさす。1879年(明治12)外務卿(きょう)(85年内閣制度成立後外務大臣)に就任した井上馨(かおる)は、まず法権の回復を図ろうとし、82年条約改正予議会、86年条約改正会議を各国との間に進めたが、その際伊藤博文(ひろぶみ)らとともに、83年の鹿鳴館(ろくめいかん)開館に象徴されるごとく、制度、文物、習俗を欧風化して、欧米諸国に日本の近代化を認めさせ、交渉の促進を図ろうとした。鹿鳴館での政府顕官と外国使臣との社交、官庁をはじめ洋館建築、服装、結髪、食事、礼法など風俗の洋風化、キリスト教の奨励や言語、詩歌、小説、演劇、美術などの改良運動、はては人種改良論まで唱道された。その多くは政策的に演出された外面的な欧化であり、上流社会を中心としたものであっただけに厳しい批判が起こった。徳富蘇峰(とくとみそほう)ら民友社グループは欧化主義の貴族的性格を批判して平民的欧化を主張し、志賀重昂(しがしげたか)、三宅雪嶺(みやけせつれい)、陸羯南(くがかつなん)ら国粋主義を標榜(ひょうぼう)する政教社グループは伝統文化や国民的精神の尊重を説いて皮相な欧化主義を批判した。また条約改正交渉は外人法官の任用規定など片務的で日本に不利なものだったので、自由民権家をはじめとして激しい反対運動が起こり、井上を辞職に追い込んだ。その後大隈重信(おおくましげのぶ)外相の改正交渉も89年失敗に終わり、これを機会に欧化主義の風潮も急速に衰えた。
[和田 守]
『井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝 3』(1934・内外書籍/復刻版・1966・原書房)』▽『指原安三編『明治政史』(『改訂版 明治文化全集9・10 正史篇』所収・1956・日本評論社)』
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