麻続郷(読み)おうみごう

日本歴史地名大系 「麻続郷」の解説

麻続郷
おうみごう

和名抄」高山寺本・東急本ともに「乎宇美」の訓を付す。「麻績」とも記される。「倭姫命世記」裏書に「号麻続郷者、郡北在神、此奉大宮神荒衣々、神麻続氏人等別居此村、因以為名也」とみえ、神宮へ荒衣を奉納する神麻続氏の居住による地名説話を記す。「延喜式」神名帳には「麻続ヲミノ神社」を載せる。天永四年(一一一三)二月二五日の散位大中臣某封戸売券案写(光明寺古文書)に「麻続郷敢石部常吉戸」がみえる。


麻続郷
おみごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書の信濃国伊那郡・更級郡の麻続郷には「乎美」の訓が付されているので、これに準じて訓じておく。「麻続」は本来「麻績」と書き、麻の繊維から糸を作る作業をいい、当郷の名もこうした麻の加工作業に従事した集団が居住したことに由来すると思われる。「延喜式」民部省では、下野国の年料別貢雑物として麻紙一〇〇張と麻子三斗を記し、同書中務省内記の項によれば、これらの麻紙は位記を書く料紙に利用されるが、こうした麻製品の生産は、当郷との関連が推測されよう。「続日本紀」延暦元年(七八二)五月三日条には、安蘇郡の主帳若麻続部牛養が軍粮を献じた功で外従五位下に叙せられたことが記されている。


麻続郷
おみごう

「和名抄」高山寺本には「麻続」と記し、流布本には「麻績」と記し、両書とも「乎美」と訓じている。「をみ」と称したことは明らかである。その地域を確定する直接の史料はないが、「伊呂波字類抄」や「善光寺縁起」(金沢文庫本)などが、推古天皇の時信濃国人若麻績東人(本田善光)が、百済伝来の三尊阿弥陀仏を負うて、信濃国に下着、ひとまず伊那郡宇治村麻績の里の草堂に安置したと記していることから、善光寺にからめてその所在を肯定している。その点で「下伊那郡史」は、「これらの記録の性質上全部を肯定することはできないが、飯沼と座光寺は小川一筋を隔てた地続きであることから、この麻績郷というのは、今の座光寺ざこうじ(現下伊那郡高森たかもり町)から飯沼いいぬま(同上郷かみさと町)一帯であったとする見解は正しいと考えられる」と記している。


麻続郷
おみごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。続は古くは績に通じるので、麻績部の住していた地とする説があり(日本地理志料)、信濃国伊那いな郡の麻続郷に乎美の訓、伊勢国多気たき郡の同名郷に乎宇美の訓があるので、ヲミまたはヲウミであろう。応保二年(一一六二)六月三日の大禰宜実房譲状(香取文書)にみえる小見おみ郷につながると考えられる。


麻続郷
おうみごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。「続日本後紀」承和一五年(八四八)五月一三日条に「伊具郡麻続郷戸主磐城団擬主帳陸奥臣善福」とあり、当郷の豪族が「阿倍陸奥臣」の姓を賜っている。多賀城跡出土の瓦の篦書に「伊具郡麻」とあり、当郷名を示すものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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