日本歴史地名大系 「黒森村」の解説 黒森村くろもりむら 山形県:酒田市旧田川郡地区黒森村[現在地名]酒田市黒森坂野辺新田(さかのべしんでん)村の南にあり、赤(あか)川下流右岸に位置する。大正一〇年―昭和九年(一九二一―三四)に黒森集落南の新川(しんかわ)橋下流八〇〇メートル、地表下三〇メートル辺りで黒森遺跡が発見された。泥炭層上に焼石の炉跡があり、縄文時代晩期の土器と石器、弥生時代後期の天王山式土器と扁平片刃石斧、平安時代前半の土師器・須恵器・赤焼土器が出土し、砂丘形成史上貴重な資料でもある。 黒森村くろもりむら 福島県:会津若松市旧大戸村地区黒森村[現在地名]会津若松市大戸町高川(おおとまちたかがわ)南原(みなみはら)村と香塩(かしゆう)村の間を流れる九(く)ノ沢上流東の高原状の平地にあり、南東は高(たかつぶり)山。北東の沼(ぬま)ノ平(たいら)峠を経て一(いち)ノ渡戸(わたど)村に至る。村名は高山が高山で、樹木が暗く茂っていることによるという(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高七八石余。南青木組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高一八八石余。 黒森村くろもりむら 山形県:西村山郡大江町黒森村[現在地名]大江町黒森貫見(ぬくみ)村の北にあり、小柳(こやなぎ)沢右岸の標高三〇〇メートル付近に集落がある。北西の小柳沢上流の緩傾斜地にある中(なか)ノ畑(はた)は枝郷。最上氏領から元和八年(一六二二)幕府領となり幕末に至る。寛永検地の高八四石余(最上記)。正保郷帳では田方六一石余・畑方二二石余・寺社領五石余。嘉永元年(一八四八)の村山郡石高帳では高一三三石余。田は川沿いにあるが、おもに畑作で、青苧・漆実・雑穀・養蚕が盛んである。 黒森村くろもりむら 青森県:黒石市黒森村[現在地名]黒石市南中野(みなみなかの) 黒森黒森山麓にあり、不動館(ふどうだて)村の支村。不動館村の北東、大川原(おおかわら)村の南西にあたる。元禄四年(一六九一)の黒石御絵図(市立弘前図書館蔵)に村名がみえ、元禄頃にできたといわれる(山形郷土物語)。享保一〇年(一七二五)の黒石領郷村帳(同館蔵)には新村として書出され、安政六年(一八五九)の郷村帳(同館蔵)には「不動館村枝村」とあり、明治初年の「新撰陸奥国誌」には「本村の北二十四丁三十九間にあり、家数七軒」とあり、本村同様樵炭を業としていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by