黒田長溥(読み)くろだながひろ

精選版 日本国語大辞典 「黒田長溥」の意味・読み・例文・類語

くろだ‐ながひろ【黒田長溥】

  1. 江戸末期の福岡藩主。島津重豪の九男。斎清の養子公武合体に尽力し、戊辰(ぼしん)戦争討幕の兵を派遣軍備を充実し、産業助成、また、蘭学医学を奨励するなど、藩政治績をあげる。文化八~明治二〇年(一八一一‐八七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「黒田長溥」の意味・わかりやすい解説

黒田長溥
くろだながひろ
(1811―1887)

幕末の福岡藩主。文化(ぶんか)8年3月1日、薩摩(さつま)藩主島津重豪(しげひで)の九男として江戸高輪(たかなわ)邸に生まれる。1822年(文政5)12歳のとき黒田斉清(なりきよ)の養子となり、34年(天保5)藩主となる。藩政改革に力を入れ、また蘭学(らんがく)を好み文政(ぶんせい)期には斉清とともに長崎でシーボルトに会見。ペリー来航に際しては幕府諮問に答えて開国主張した。62年(文久2)公武周旋のため上京。64年(元治1)禁門の変後は幕府と長州藩との斡旋(あっせん)に努めたが、65年(慶応1)加藤司書ら勤王派を弾圧、以後佐幕立場をとり明治維新を迎えた。69年(明治2)59歳で隠居。明治20年3月7日東京で没した。77歳。

[柴多一雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黒田長溥」の意味・わかりやすい解説

黒田長溥
くろだながひろ

[生]文化8(1811).3. 薩摩
[没]1887.3. 東京
幕末の福岡藩主。薩摩藩主島津重豪 (しげひで) の9男。文政5 (1822) 年,福岡藩主黒田斉清の養子となり,天保5 (34) 年襲封。蘭学を好み,ペリー来航に際しては開国方針を幕府に建策。砲台を築き,外国船を購入し,精錬所を設けるなど藩に西洋施設を導入した。幕末政局の混乱に際しては公武合体の立場に立って幕府,長州間の斡旋に努めた。 1877年の西南戦争の際は,新政府の依頼を受けて勅使柳原前光に随行,島津久光らと会見して新政府側からの斡旋に尽力した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「黒田長溥」の解説

黒田長溥 くろだ-ながひろ

1811-1887 江戸時代後期の大名。
文化8年3月1日生まれ。島津重豪(しげひで)の9男。黒田斉清(なりきよ)の養子となり,天保(てんぽう)5年筑前(ちくぜん)福岡藩主黒田家11代。蘭学をこのみ,ペリー来航に際し開国を主張。公武合体につとめるが,慶応元年勢力が強大となった藩内勤王派を弾圧し,以降は佐幕の立場をとった。明治20年3月7日死去。77歳。通称は官兵衛。

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世界大百科事典(旧版)内の黒田長溥の言及

【福岡藩】より

…筑前国(福岡県)福岡に藩庁を置いた外様大藩。1587年(天正15)小早川隆景が筑前一国および筑後2郡,肥前2郡,高30万石余を与えられ,粕屋郡名島に居城を定めたのが始まりである。98年(慶長3)秀秋が越前国北ノ庄に移され,筑前は豊臣秀吉の直轄領(太閤蔵入地)となったが,99年には再び秀秋が復帰した。関ヶ原の戦(1600)の後,秀秋の岡山移封のあとをうけて豊前国中津の黒田長政が怡土(いと)郡の西半分を除くほぼ筑前一国を与えられて入部した。…

※「黒田長溥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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