日本の城がわかる事典 「黒羽城」の解説 くろばねじょう【黒羽城】 栃木県大田原市(旧黒羽町)にあった戦国時代の連郭式の山城(やまじろ)。同市指定史跡。那須氏の支族の大関氏の居城。那珂川と松葉川にはさまれた比高約30mの段丘の上にあった連郭式の城である。文安年間(1444~48年)に大関忠増が砦跡であった場所に城を築いたのが起源といわれる。1542年(天文11)、白旗城主の大関宗増と、同じ那須氏の与力の大田原資清との間に抗争が起こり、大田原氏は大関氏の居城の白旗城を攻めて落城させ、宗増の嫡男増次を討ち取った。その後、資清は長男の高増に大関姓を名乗らせて宗増の養嗣子とさせた。この高増が大関氏の家督を継いだ後の1576年(天正4)に黒羽城を整備・拡張し、大関氏の居城とした。高増は豊臣秀吉の小田原城攻め(1590年、小田原の役)にもいち早く参陣して、秀吉から本領を安堵され、さらに1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは、当主となった大関資増(高増の子)が徳川氏に味方して会津の上杉景勝の押さえとして働いた。その際、徳川氏からの援助により、黒羽城に黒門・中門・北坂門などの城門や塀・築地がつくられたといわれる。江戸幕府が開かれると、旧領に黒羽藩2万石(後に1万8000石)が成立し、代々大関氏が藩主をつとめて明治にいたった。この間、黒羽城は藩主大関氏の居城、藩庁となり、維新後、廃城となった。ただし、黒羽城は、宇都宮・壬生・烏山・大田原などの諸城とは異なり、幕府からは陣屋として扱われた。関東の外様大名としては、一貫して旧領の藩主をつとめたのは、大関氏と大田原氏などごくわずかである。城跡は現在、黒羽城址公園として整備され、空堀や水堀、土塁などの遺構がたいへん良好な状態で現存している。なお、同公園はあじさいの名所として知られ、毎年6月下旬から7月上旬には多くの人出でにぎわう。二の丸跡には、黒羽に滞在した松尾芭蕉の足跡を紹介する資料館の「芭蕉の館」が建っている。JR東北本線西那須野駅からバス約25分で黒羽バスターミナル下車、車で約5分。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報