津田 白印(読み)ツダ ハクイン

20世紀日本人名事典 「津田 白印」の解説

津田 白印
ツダ ハクイン

明治〜昭和期の日本画家,社会事業家,僧侶 淳和女学校校長



生年
文久2年4月1日(1862年)

没年
昭和21(1946)年2月15日

出生地
備中笠岡(岡山県笠岡市)

本名
明導

別名
幼名=峯丸,別号=白道人,吸江山人,黄薇山人,甘露窟主人

主な受賞名〔年〕
宮内省表彰〔大正13年〕,文部大臣表彰〔昭和15年〕,合同新聞社文化賞〔昭和18年〕

経歴
笠岡の浄心寺(浄土真宗)住職・津田明海の子として生まれ、豊前で仏教学や漢学修業。その傍ら、明治13年から長崎派の南画家・成富椿屋に師事し、文人画を習った。24年奈良監獄の教誨師となり、少年囚を教導。この時から、青少年の社会環境改善を志すようになり、33年に辞職して郷里笠岡の本林寺内に孤児収容施設甘露育児院を開いた。同院は間もなく実家の浄心寺に移管。その経営は、彼の描いた絵の収入や信徒からの寄附などで賄われた。大正12年淳和女学校(現・淳和女子高等学校)を創立し、校長に就任。13年には長年に渡る社会・教育事業が高く評価され、宮内省より表彰を受けた。また慈善・教育活動の一方で、資金難に喘いでいた学校の経営を補助するために絵筆をとり続け、たびたび個展を開催した。その画風は伝統的な南画の流れを汲みながら大胆な構図と高い品格を持ち、特に花卉山水などに秀作が多い。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「津田 白印」の解説

津田白印 つだ-はくいん

1862-1946 明治-昭和時代前期の社会事業家,日本画家。
文久2年4月1日生まれ。備中(びっちゅう)(岡山県)笠岡の浄土真宗浄心寺に生まれ,僧となる。成富椿屋(ちんおく)に文人画をまなぶ。明治33年笠岡に甘露育児院を設立し,画料で経費をまかない孤児の養育にあたる。大正12年淳和女学校を設立し,校長。昭和21年2月15日死去。85歳。名は明導。別号に吸江山人など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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