逸見 直造(読み)ヘンミ ナオゾウ

20世紀日本人名事典 「逸見 直造」の解説

逸見 直造
ヘンミ ナオゾウ

明治大正期の社会運動家



生年
明治10(1877)年3月1日

没年
大正12(1923)年10月23日

出生地
岡山県都窪郡早島村字無津(現・早島町)

本名
逸見 直蔵

経歴
明治32年渡米し、コック学校、法律学校などで学び、各地を転々とする。36年帰国、同年大阪で西洋料理店を開き、来日のドイツ人から社会主義思想を学ぶ。のち再渡米し、41年帰国し社会主義運動に入る。大正4年労働者無料法律相談所(9年借家人同盟発展)を開設、大阪市電乗車賃・電灯料金引き下げ運動などの市民運動を組織。8年大杉栄の労働運動社に参加し、「労働運動」の普及に努めた。また11年総同盟のアナ・ボル統一をはかる。12年9月3日震災テロで検束されるが月末に釈放

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「逸見 直造」の解説

逸見直造

没年:大正12.10.23(1923)
生年:明治10.3.1(1877)
明治大正期の市民運動家,初期社会主義者。岡山県都窪郡早島村(早島町)の農家(地主)に生まれた。職人の修業などののち,明治30(1897)年に渡米。出入国を繰り返しつつ家事,レストランなどの労働や経営に従事,また社会主義運動にも触れた。40年帰国。低家賃の借家事業やアヒル養殖に取組むが,失敗。大正に入ると,岩出金次郎,武田伝次郎ら大阪の社会主義者と交流,大杉栄らの『近代思想』『平民新聞』にも協力した。大正4(1915)年武田と労働者無料法律相談所(のち借家人同盟に発展)を開き,自身も市民運動に参加した。この間産児制限運動にも協力。11年の総連合運動(日本労働組合連合)創立大会には,統一の実現に尽力するが,失敗に終わった。関東大震災の余波で検束され,釈放後に心臓病で急逝。<参考文献>逸見吉三『墓標なきアナキスト像』

(小松隆二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「逸見 直造」の解説

逸見直造 へんみ-なおぞう

1877-1923 明治-大正時代の市民運動家,社会主義者。
明治10年3月1日生まれ。30年渡米し,レストランなどではたらき,社会主義思想にふれる。40年帰国。大正4年労働者無料法律相談所(のちの借家人同盟)を開設,産児制限運動にも参加した。大正12年10月23日死去。47歳。岡山県出身。

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