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明治末期に発行された週刊および日刊の新聞。(1)週刊《平民新聞》 1903年11月15日,日露戦争に反対して《万朝報》を退社した幸徳秋水と堺利彦によって創刊された。後に石川三四郎,西川光二郎らが参加したほか,安部磯雄,加藤時次郎,木下尚江,斯波貞吉らが社外から協力した。創刊の宣言でみずからの主義として〈平民主義,社会主義,平和主義〉を掲げ,新聞は〈満天下の同主義者が公有の機関〉と自己規定している。いまだ無定型の状態にあった初期社会主義運動は,この新聞の媒介する交流関係によって運動面でも思想面でも自己形成していった。原則としてタブロイド判8ページ建ての紙面では,社会主義・平和主義論文,外国の運動紹介,国内の集会・演説会などの報告,全国各地の読者からの投書などによって中央の平民社と全国に散在する同志の間あるいは地方同志相互の間に交流をつくりだそうとしている。平均の発行部数は3000~4000部程度であった。しかし,日露戦争中における果敢な言論活動や,日本で初めての《共産党宣言》訳載などのため,政府からたびたび弾圧を受け,罰金・印刷機没収等により資金が圧迫されたうえ,堺らが投獄され,05年1月29日マルクスの《新ライン新聞》終刊号にならった全紙赤刷りの第64号をもって廃刊した。(2)日刊《平民新聞》 週刊《平民新聞》廃刊後,路線上の対立から運動は沈滞したが,外遊していた幸徳の帰国を機に06年末平民社が再興され,その機関紙として07年1月15日に創刊された。幸徳のほか堺,荒畑寒村らが中心となった。また日刊《平民新聞》は日本社会党の機関紙ともなった。しかし,幸徳ら直接行動派と,片山潜,西川,田添鉄二ら議会政策派の対立や日本社会党が禁止されたことから,わずか3ヵ月後の07年4月14日(第75号)をもって廃刊となった。その後,幸徳らの流れは同年6月から森近運平編集の《大阪平民新聞》(後《日本平民新聞》と改題)に受け継がれたが,08年5月(第23号)をもって廃刊。また,大杉栄と荒畑は14年10月15日に月刊《平民新聞》を発行したが,毎号発売禁止という過酷な弾圧にあい翌15年3月の第6号で廃刊した。
執筆者:有山 輝雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
明治後期、東京で発刊された社会主義新聞。日露開戦に反対した幸徳秋水(こうとくしゅうすい)、堺利彦(さかいとしひこ)が、反戦の立場を貫くために1903年(明治36)11月15日創刊した(週刊)。自由、平等、博愛を基本とし、平民主義、社会主義、平和主義を唱えた。石川三四郎、西川光二郎(みつじろう)らが在社、木下尚江(なおえ)らも応援したが、第20号の社説「嗚呼(ああ)増税」で堺が2か月の軽禁錮に処せられたのをはじめ、一周年記念号に「共産党宣言」を訳載して発禁を受けるなど、罰金、発売頒布禁止が続き、最後には印刷所国光(こっこう)社の印刷機械も没収されたため、05年1月29日の第64号を、マルクス・エンゲルスの『新ライン新聞』の終刊にちなんで赤刷りとし、廃刊した。その後、後継紙が相次いだが、07年1月15日、石川、西川、竹内兼七(かねしち)、幸徳、堺らによって、日刊の『平民新聞』が創刊された。しかし、内部の思想的対立、ならびに発売頒布停止処分による経営難に加えて、第63号の「青年に訴ふ」が朝憲紊乱(びんらん)罪で編集人、印刷人、筆者が起訴されたこともあり、4月14日第75号をふたたび全紙赤刷りにして廃刊した。
[春原昭彦]
『林茂・西田長寿編『平民新聞論説集』(岩波文庫)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1903年(明治36)11月15日に平民社から創刊された週刊紙。同年「万朝報(よろずちょうほう)」を去った幸徳秋水と堺利彦らが創刊。日露戦争に非戦論を唱え,社会主義思想の普及と国際的連帯に努めた。05年1月29日に第64号で廃刊。いったん解散した平民社が06年に再建されると,キリスト教系社会主義の「新紀元」と唯物主義的社会主義の「光」の2派が合同し,07年1月15日から日刊「平民新聞」を発行,日本社会党の機関紙的役割をはたした。たびたび筆禍をうけた末,同年4月13日発行禁止となり,翌日第74号で廃刊。発行部数は4000~1万部程度であったらしい。同じ題名の新聞に,大杉栄・荒畑寒村編集の月刊「平民新聞」などがある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…同党は規約第1条で〈本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す〉とうたい,1901年の社会民主党や平民社の議会主義的立場を継承し,結党以前から刊行されていた《光》が機関紙となった。結党後,電車運賃値上げ反対運動などを展開したが,同年6月にアメリカから帰国した幸徳秋水が議会主義路線に疑問を投じ直接行動論に転じたため,翌07年1月15日から刊行された日刊《平民新聞》に両論をめぐる議論が展開され,2月17日の第2回大会は幸徳の直接行動論と田添鉄二の議会主義論の対立で激論の場となった。西園寺公望内閣は幸徳らの主張が過激との理由で同月22日に党の結社を禁止し,4月14日には《平民新聞》も廃刊に追い込まれた。…
…日清戦争後,日本の朝鮮進出と軍事力の強化の中で日露関係は切迫し,対露同志会や七博士の対露強硬意見書(七博士建白事件)が口火となり各新聞論調も挙国一致・主戦に傾いていった。1903年10月堺利彦と幸徳秋水は〈退社の辞〉を掲げて《万朝報》と決別し,約1ヵ月後《平民新聞》(週刊)を発行した。創刊号で〈平民主義,社会主義,平和主義の理想郷に到達せしむるの一機関〉と宣言し,世論に向かって日露非戦の活動を開始した。…
※「平民新聞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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