日本大百科全書(ニッポニカ) 「産児制限運動」の意味・わかりやすい解説
産児制限運動
さんじせいげんうんどう
近代化の進展によって社会問題化した、多産による女性の過重な心身の負担や家族の貧困を防ぐため、産児を制限するよう指導する運動。アメリカ人女性M・サンガーが1914年に提唱し、日本では1918~1919年(大正7~8)に安部磯雄(あべいそお)、山本宣治(せんじ)などがこの運動を開始した。当初は、アメリカでも日本でも保守的な勢力によって反対されたが、しだいに広範な人々の支持を得て、労働者家族の生活改善、人口問題の解決や女性の解放に重要な役割を果たすようになった。
日本では、1922年(大正11)にサンガーが産児制限運動を普及するため来日した際は、官憲に弾圧され社会問題として注目を集めた。しかし、翌1923年に関東大震災が起こり、その救済事業とともに、この運動の必要性が再認識された。馬島(まじまゆたか)(1893―1969)などが産児制限の方法を普及する運動を推進し、1926年には愛児女性協会を設立した。女性運動家や自治体関係者などにもこの運動に参加するものが増加し、1930年(昭和5)スイスで開催された国際産児調節会議には、馬島とともに東京市会議員も参加した。この会議ののち、馬島は『産児調節の理論と実際』(1931年・非売品)などを刊行して普及に努め、東京市第一助役白上佑吉、同社会局長安井誠一郎などは行政施策として取り上げようと図った。都市部の知識層には産児制限する夫婦が増加した。
しかし、その直後から、軍国主義が強まり、中国大陸への侵略が進められたために、「生めよ増やせよ運動」が始められ、産児制限運動への弾圧が行われるようになり、1934年には馬島は堕胎幇助(ほうじょ)容疑で検挙された。戦争が拡大するにつれて弾圧が強化され、産児制限運動は壊滅した。
第二次世界大戦後、加藤シヅエ(1897―2001)たちは、いち早く産児制限運動を再出発させ、1947年(昭和22)日本産児調節連盟を結成して全国的に普及活動を展開した。1948年には国民優生法(1940)を改正して優生保護法(昭和23年法律156号、現母体保護法)が制定され、人工妊娠中絶が合法化された。これによって、ベビーブーム(1947~1949)の後に、出生率は急激に低下したが、人工妊娠中絶には危険が伴うため、厚生省(現厚生労働省)は保健所を通じて、婚前学級、新婚学級、母親学級などの集団指導や個人相談などの形で、受胎調節による家族計画を指導した。その後日本では少子化が進み、社会的な産児制限対策は行われなくなった。
国際的には1952年国際家族計画連盟が結成され、産児制限=家族計画を普及する運動が活発化している。日本は、外務省、独立行政法人国際協力機構と財団法人家族計画国際協力財団を中心に、日本家族計画協会などの協力を得て、開発途上国の家族計画運動に寄与している。しかし、それらの国では、工業化、生活水準の向上、保健・医療サービスの普及などによって「多産多死」から「多産少死」へ移行する過程にあるため、現在も人口増加が続いている。
[山手 茂]
『式場隆三郎著『サンガー夫人伝と産児調節展望』(1947・大元社)』▽『岡崎陽一他著『図説人口問題』新版(1978・日本家族計画協会)』▽『石濱淳美著『家族計画と避妊』第2版(1992・メディカ出版)』▽『木村好秀・齋藤益子著『家族計画指導の実際』(1997・医学書院)』▽『安部磯雄他著『産児制限の理論と実際』復刻版(2002・日本図書センター)』