マレーシアの政治家。1953年マラヤ大学(現、シンガポール大学)医学部卒業後、医務官となるが、のち、開業医に。1964年下院議員に初当選。1969年ラーマン首相と対立し統一マラヤ国民組織(UMNO)を追放されるが、1972年UMNOに復帰。1974年教育相、1976年副首相兼貿易相、1981年UMNO総裁、同年7月マレーシア第4代首相に就任。1986年より内相、1987年より法相兼務。日本や韓国に学び経済開発を進めようとするルック・イースト政策を提唱。1990年12月に貿易ブロック構想、東アジア経済会議構想(EAEC)を提唱、波紋をよんだ。アジアの声の代弁者ともよばれる。長期にわたって政権を維持したが、2002年6月UMNO党大会において2003年に首相職等を辞任すると発表、2003年10月退任した。
2017年には野党連合の議長となり、2018年の下院議員選挙で勝利し、2020年2月まで首相を務めた。
[編集部]
『大前研一著『アジア人と日本人 マハティールマレーシア首相との対話』(1994・小学館)』▽『マハティール・モハマド著、加藤暁子訳『アジアから日本への伝言』(2000・毎日新聞社)』▽『林田裕章著『マハティールのジレンマ 発展と混迷のマレーシア現代史』(2001・中央公論新社)』
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1925~
クダー州出身のマレー人政治家で,第4代マレーシア首相(在任1981~2003)。エドワード7世医学校在学中の1946年,統一マレー人国民組織(UMNO)に入党する。69年ラーマン首相を批判して除名されるが,72年に復党し,81年首相に就任した。マレー人を中心としたマレーシア社会の再編を意図したブミプトラ政策,経済の近代化を目的としたルック・イースト政策,先進国の仲間入りをめざすワワサン2020構想の推進に強力な指導力を発揮した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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